序章 業火転生變(一) 新免武蔵 12
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〝この揉めごとは藩の重役にまで聞こえ、もうどうすることも出来ねえほど拗れちまいやがった。細川家内部の権力闘争まで絡んじまったもんで、正式に俺と巌流が立ち合う羽目になっちまった。冗談じゃねえよ、こりゃ蝮を百匹詰め込んだ瓶の中に、手を突っ込めって言ってるようなもんだ。死ねって言ってるも同然だった〟
いくら嫌でも、逃げ出せば武蔵の兵法家としての名は地に堕ちてしまう。
しかし立ち合えば殺される。
どちらも選べなかった。
〝いいかい、いまの俺よりも二十以上も年上の爺いだぜやつは。それを当時二十九歳の俺が恐れおののくんだ、馬鹿馬鹿しいにも程がある。しかしそれが事実さ〟
その日が来るまで恐ろしくて、武蔵はろくろく寝ることさえ出来ないでいた。
しかし立ち合いの時刻は、明日にまで迫っている。
〝ギリギリの状況で、俺は最悪の決断をした。立ち合いは誰ひとり居ない舟島で行われる、――そう誰も見てはいない〟
〝その時、俺の心に魔が取り憑いたのだ〟
慶長十七年四月十二日、武蔵との立ち合いを前にして小次郎は、最後の仕上げに取りかかった。
田圃が広がる里へ出向き、清流が流れる淵で心静かに息を整えている。
門弟たちが遠巻きにそれを見守る。
辺りを燕が飛び交う。
それまで軽く目を瞑っていた小次郎が静かに目蓋を開くと、背に負うている備前長船長光を一閃させた。
それは瞬きする間に終わっていた。
小次郎の周りには、切り落とされた燕が四羽落ちている。
正に神技であった。
小次郎が作り出した『燕返し』と中条流の秘太刀『虎切り』が、流れるようにひとつの技となったのである。
上段から切り下げた刀を瞬時に逆袈裟に切り上げ、身体のひねりを利用して右から一文字に空を裂き、それと同じ速度で今度は左か右へと薙ぐ。
それを小太刀であれば皆伝を受けた者であれば、なんとか工夫できるかもしれないが、三尺の長太刀でやるとなればまず無理な動きである。
いくら鍛錬しようとも、人間の身体能力の限界を超えている。
しかもその流れを空を相手にするのではなく、飛び交う燕を目で追い切り伏せるのである。
人並み優れた膂力、天才的な体捌き、瞬時に対応できる爆発的耐性、神から与えられた動体視力。
そのどれかひとつでも欠ければ、なし得ない技だった。
もはや人の技量の範疇を超えていた。
剣に関しては、すでに小次郎は神の領域に達していると言える。
『飛燕虎切り』
想像を絶する必殺剣が、ここに誕生した。
『巌流』
この瞬間それはあまりにも偉大すぎて、継承できる者のない孤高の流派となってしまった。
〝型は完成した、あとは実際に剣を交えた真剣の立ち合いにて相手を斬れるか。それがなって、初めて技は完全なものとなる。二天一流・新免武蔵、獣の如き剣だと聞く、試す相手としてなんの不足なし。この歳で殺生は好まぬが、殿のご下命とあらば致し方あるまい〟
懐紙で刀身をひと拭きする。
微風に煽られ数枚の半紙が、華麗に宙に舞った。
小次郎は長光を鞘に収めながら、心静かにそう呟いた。
この時見守っていた門弟も、小次郎自身でさえもその勝ちを疑う者は誰も居なかった。
明けて慶長十七年四月十三日、小倉城内並び城下に衝撃的な情報が届けられた。
「巌流小次郎、舟島にて武蔵に敗れ一命を落とす」
あり得ベからざる結果であった。
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