序章  業火転生變(一) 新免武蔵 7



   2 新免武蔵玄信しんめんむさしはるのぶ ①



 寛永十五年二月二十七日・肥前島原は修羅地獄の中にあった。

 海に突き出した原城は堅牢な要塞と化し、城内には三万七千の天主教徒、浪人、農民からなる雑多な叛徒が籠もっている。


 それを江戸から下って来た公儀老中・松平伊豆守信綱を総大将とした、十二万の兵が十重二十重に取り囲んでいた。

 その布陣の中に豊前中津藩主・小笠原忠真により、甥である貞次の後見を任された〝新免玄信しんめんはるのぶ〟の姿があった。


 一般には〝新免武蔵〟〝宮本武蔵〟と呼ばれることもある、二天一流を創始した天下随一の兵法者である。


 天正十二年播磨にて生まれてこの方、数々の申し合いを経て今年で齢五十四。

 多分これが最後の戦場となる予感が彼にはあった。


 十三歳の時に姫路城下にて新当流の使い手、有馬喜兵衛なる武芸者を打ち殺したのが始まりであった。

〝ありゃ酷かった。相手はまだ小童の俺に説教でもする気でいたところを、いきなり木刀で襲っちまったんだからな。油断してる方が悪いが、俺も狡かった。後は滅多打ちに撲り、叩き殺してやった。脳みそが溢れ、目ン玉が片方飛び出てたっけな〟

 彼はこの最初の勝負のことを、生涯忘れなかった。


〝どんなやつにでも、狡をすれば勝てる〟

 それが彼の真の座右でもあった。


 もちろん誰にも言ったことはない。

 しかし間違ってはいけない、そんな狡だけで勝ち残れるほど剣の道は甘いものではない。

 彼は元々躰が大きく、膂力も桁外れであった。

 そうして努力も怠らなかったのである。


 天賦の才と人生を賭けた修行の日々、そこに徹底的な狡さを加えれば天下第一の剣豪が出来上がるのである。

 彼の言う〝狡〟とは、勝つための工夫の事である。



 生涯六十余度の真剣勝負において、未だに負けを知らず。

 これも嘘である。

 武蔵は一度だけ負けたことがあった。


 夢想権之助という、杖術使いに負けた。

〝負けたなんて言えるわけがねえ、俺は古今最強の兵法者じゃなきゃならんのだから。でもあいつは強かった、しかし俺は生きてるんだから負けじゃねえ〟

 まったく身勝手な考え方である。


 そのとき彼が生き残れたのは、相手に殺す気がなかったからである。

 相手の情けにより生かしてもらったのに、彼はそれを微塵ほども感謝していない。

 しかし勝ったとは言えず、勝敗に関しては黙んまりを決め込んだ。


 それが功を奏し、引き分けたのではないかという噂が立った。

〝勝ちゃしなかったが、負けたんじゃない。じゃあ無敗って事でいいじゃねえか〟

 それが彼の生き方であった。


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