第8話

 ――『時のダンジョン』。


 いつか必ず来ると思っていた、時間の再現。

 例えば、守るべき誰かとの約束。死ぬべきではなかった人と過ごす時間。本来来るはずの未来を『取り戻す』時の魔法が眠っている。


 黒犬を殺したへカティアは、『両親と過ごす時間』を取り戻した。


 女神に供物を捧げて得たそれは、幻覚ではない。本物の時間だ。

 同時に、やり直した分、今まで持っていた時間を捨てるものでもある。


 ■


 青い影が、真っ白に塗られた壁に落ちる。

 へカティアは二人の間にはさまって、二人の手を繋ぐ。

 影から半分出た胴色の腕は、太陽の熱でさらに赤みを増した。


「すっかり焼けたわね~」

「痛くないかい?」

「へーきへーき!」


 そこは街を一望できる道で、海を隔てた岬には丸々とした形の風車が回っていた。

 住宅街は迷路のようで、へカティアはワクワクした。自分たちが歩く道より、高いところに入口がある家。その階段を、猫が座ってあくびしている。

 

(きっとここにスペスがいたら喜んだだろうな)

 

 へカティアはそう思うと、楽しい反面、残念な気持ちになる。


「あー、スペスと一緒に来たかったなー」

「スペスって、誰のこと?」


 へカティアがそう言うと、隣にいた母が不思議そうに尋ねてきた。

 へカティアは答えようとしたが、はて、と首を傾げる。


「……誰だっけ?」


 へカティアがそう言うと、「おいおい」と父が笑う。

 ふふ、とつられて母も笑う。その声に、へカティアも思わず笑った。

 だが、心の底では何かが引っかかる。


(誰だっけ。……とっても大切な相棒だったはずなのに)






 夕日が、白い街へ沈んでいく。

 紫色のグラデーションになった夜空を見ながら、へカティアたちはテラス席で食事をしていた。

 

「美味しい~!!」


 父が予約したレストランは、海が見えるオシャレな店だった。

 机に並ぶのは、シーフードのカルパッチョに、羊乳から作られたフェタチーズのサラダ、ビーフシチュー。少しあたたかいサワードウに、黒いオリーブペーストを塗って食べる。

 父がワインを注いでくれた。空だったグラスに、赤いワインが注がれ、そこに幸せそうな自分の顔が映る。へカティアはにへら、と笑った。


 

「あー、ランパスがいたら、ものすごく喜んだだろうなー」


 ランパスは何でも食べるが、やはり美味しい料理には目を輝かせるに違いない。

 そう思うへカティアに、父は頬を赤く染めながら尋ねる。


「ランパスって、誰のことだい?」

「……誰だっけ」


 尋ねられると、さきほどまで鮮明に頭に描いていた人物が消えていく。

 はて、とへカティアは首を傾げた。


「お母さん、あなたのお友だちはみんな知っているものだと思ったのだけど、他にもいたのね」


 母がふわふわ笑いながら言った。


「学校の子かい?」

「……うん。多分」


 そっと、へカティアは料理に視線を落とした。

 

(私、何か忘れている気がする……)


 弦楽器の音楽が流れる。


「ほら、デザート来たわよ」


 疑問と記憶はすぐに、運ばれてきたデザートによって飛んで行った。



 





「今日はとっても楽しかった! ありがとう、お父さん、お母さん!」


 ホテルの部屋で、へカティアがそう言う。


「一人の部屋でいいのかい? 本当に」

「もー、お父さんってば。私の部屋とお父さんの部屋、扉で繋がってるじゃん。それに私、もう大人だよ?」

 

 あはは、とへカティアが笑い飛ばすと、違うわよ、と母が言う。


「単にさみしいだけなのよ、この人が」

「そうなの?」


 へカティアがそう言うと、うう、と、わざとらしく父は泣き崩れる演技をする。


「だって……へカティアと一緒に旅行できる日なんて、もうないかもしれないもん……」

「や、やだなあお父さん! 私は二人とずっと一緒だよ!」


 へカティアがそう言うと、母は、「ずっとはないのよ」と優しく微笑んだ。


「生きているかぎり、隣にいる人は変わっていくわ。それは決して、悲しいことじゃないの。

 両手は空けなきゃ、新しいものは掴めないもの」

「……お母さん?」

「そうだね。さみしいけれど、嬉しいことだね」


 よいしょ、と、父が立ち上がる。


「大人気ないことして悪かった、へカティア。私たちのことは、気にしないで欲しい」

「そうよ。さっきも言ったでしょう? 『これからは、へカティアがしたいことができるわよ』って」


 優しく言う二人に、へカティアは戸惑った。


「……でも今私が望むのは、お父さんとお母さんと一緒にいることだよ」


 そう言うと、二人の笑みは深くなる。

 へカティアは、とてつもない違和感を覚えた。自分の言葉にも、二人の笑みにも。


「お休みなさい! お父さん、お母さん!」


 いたたまれなくなって、へカティアは自分の部屋に続く扉を開いた。

 バタン、と締めると、藍色に染まった一人分のベッドが横たわっている。そのシーツの上に、へカティアは背中から飛び込んだ。


(どうしたんだろ、お父さん、お母さん……なんか、いつもと変だった……)


 いつも?


(あれ? いつもって? お父さんとお母さん、そんなに私と一緒にいたっけ?

 お父さんはお医者さんで、お母さんは魔法使いで。

 家にはいつもたくさんの患者さんが来て、帰る時はいつも笑顔なの。私はよく二人の手伝いをしている。

 こないだは赤ちゃんを帝王切開で取り出して……とても危険だったけど、お母さんの治癒魔法で……)


 考えれば考えるほど、何だか、自分が自分では無いような気がしてきた。

 そんな不安をかき消すため、へカティアは目をつぶる。


(考えるのはよそう。今日楽しかったのに、嫌な終わり方をしてしまう)


 そうしているうちに、へカティアは眠りについた。

 ――月がない夜空には、たくさんの星が光っている。

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