第10話

 老婆がそう言った途端、パッとあたりは真っ白な世界に塗り替えられた。

 何も無い。

 老婆も、住宅街も、海も、空も見えなかった。

 けれど、へカティアは歩き続ける。


 足を進めるたびに。

 へカティアの記憶は、幸せなものから別のものへと塗り替えられていく。



  ◆



 へカティアは、移民の家系ではあれど、裕福な移民の子だった。

 魔法が世界から消え、代わりに科学が普遍化していく。そんな世界で、母は、魔法が使える家系であり、優遇されていたのである。

 だが戦争が始まった。よその国で、よその国の王太子が暗殺されたことで、全世界を巻き込む戦争になったらしい。

 へカティアにはわからなかった。生まれた時から、戦争の話は聞こえてきていて、それでも彼女の周りは平和だった。

 そして変わらず、父も母も忙しかった。へカティアは扉の隙間から、背中しか見えない二人の姿ばかりを見ていた。

 そしてある日、医者である父も、母も、戦場に駆り出された。



『どうして!? なんで行くの!? 夏には海に行こうって約束したじゃん!』


 約束を破られて、癇癪を起こして泣くへカティアに、父は厳しく言った。


『僕たちが戦っているのは、この国と、君のためだ。

 ――平和な日は、きっと来る。それまで、戦うんだ。だからへカティアも、我慢してくれ』


 へカティアの手を、角張った手が握った。それをへカティアがペチン、と弾く。


『お父さんたちの嘘つき!』


 その後、父も母も、何も言わずに去っていった。







『……それっきり、お父さんとお母さんには、会ってないんだ』


 ベッドの上でそう話すへカティアに、退屈そうにスペスがあくびをする。

 へカティアがスペスと出会ったのは、父と母がいなくなった後のことだった。使用人の家族が戦死したということで、葬式に足を運んだ帰り道である。

 十字路の交差点で、燃えるような赤い目を持った、大きな黒犬が立っていた。額は石か何かを投げられたのか、血が流れており、よぼよぼで、雨に打たれているぶん、よりいっそうみすぼらしく見えた。

 付き添いの使用人が悲鳴を上げる。やれ『ブラックドッグ』やら、『見たら死ぬ』だとか、『今日中に自分は死ぬんだ』とか。

『ブラックドッグ』はこの国に伝わる不吉な妖精で、見た人間は死ぬと言われているらしい。――へカティアはバカバカしくなって、その犬に治癒魔法をかけた。

 これで牙をむかれたら、へカティアも逃げただろう。だが、その黒犬からは敵意をまるで感じなかったからだ。むしろ、人間などどうでもいい、と言った感じでへカティアを見ていた。


 へカティアはその黒犬を連れて帰り、『スペス』と名前をつけた。 

 それ以来、へカティアとスペスは、共に過ごす相棒である。

 今もこうやって、神話をもとにした絵本を一緒に読んでいた。全知全能の神が、妊娠していた愛人の腹から子どもを取り出すシーンだ。


『私がひどいこと言ったから、お父さんたち帰ってこないのかなあ』


 みんなにも嫌われてるし、とへカティアは呟く。

 へカティアは、約束を重んじ、誰に対しても平等に接する。同時に、誰にも媚びないので、度々名士の子どもとぶつかって、嫌われた。最近では声をかけても、みんなから無視され続けていた。

 一部の教師との関係も悪かった。黒板のミスに気づいて、それを指摘したことが原因だった。へカティアはただ間違いを放置してはいけないと思っただけで、教師を貶めようとは思っていなかった。

 善意が悪意で返ってくるたび、へカティアはとまどい、悲しんだ。

 同時に、こうも思っていた。


(あんな嘘ばかり言って、何が楽しいんだろう?)


 偉そうにする子どもも教師も、強いものには最大限の敬意を払う。――けれどそこに、気持ちは何も篭っていなかった。目の中はなんの感情もない、虚であることを、へカティアは見抜いていた。

 へカティアは、目の前にいる生き物が無条件で好きだった。例えどれだけ嫌われても、嫌いになれなかった。

 スペスは、ふん、と馬鹿にするように、鼻を鳴らして眠った。

 付き合いがいのないやつめ、と思いつつ、へカティアも隣で眠った。

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