第9話
次の日。
へカティアが目を覚まして、両親の部屋へ向かうと、両親はいなかった。
代わりに、書き置きが残されていた。
『お父さんと一緒に散歩してきます。母』
隣にあったインク瓶が、朝日を反射して光る。
(二人とも、部屋が違うだけでさみしいって言ったくせに)
両親の小さな裏切りに、思わず頬が膨らんでしまうが、ちょうどいい。
へカティアは何となく、一人でこの辺りを探索したかった。
どこかに、自分が求めているものがあるような気がした。
お気に入りのサンダルを履いて、つばの大きい帽子を被る。
道路には、車が一台だけ走っていた。乾いた風が、帽子とスカートのすそを揺らす。道路の上にはヤシの木が、空を覆い隠すように伸びていた。
しばらく歩いていると、三叉路の交差点に、何かの像を発見する。
それは手のひらに乗るぐらいの大きさで、へカティアはしゃがんでそれを確認する。
「三人の女の人……?」
まるで三叉路の方向を示すように、それぞれ別の方向を向く三人の女性の石像だった。
それを見つめていると、又になった所に建てられた建物から、一人の老婆が現れた。
「おや、女神様に何か御用かい?」
腰の曲がった老婆は、ゆっくりとへカティアに近づく。
へカティアはあわてて、けれど壊さないよう、そっと元の位置に戻した。
「ご、ごめんなさい! これが神様だったとは思わなくて」
「ああ、いいのいいの」
朗らかに笑って老婆はかがみ、像の前に龜を置く。
「なんの神様なんですか?」と尋ねると、「さあねえ」と老婆は返した。
「色んなものを守る女神だからね。新月の夜を司ったり、太陽を司ったり、出産を司ったり、死を司ったり、天や地、海を司ったり。光と闇も、旅の安全もあるよ」
「すごい。たくさん守られているんですね」
「あんまりにも頼まれすぎて、なんの神か忘れちゃったけどね」
よいしょ、と言って、老婆は腰をあげる。
「――ここが、不満だったのかい?」
「えっ」
老婆の問いに、へカティアは戸惑った。
老婆は目尻を下げ、目を細めていたが、その奥の瞳が赤い色であることに気づく。
(あれ? この色、どこかで見た気が……)
――どこで?
へカティアには、思い出すことが出来ない。
けれどへカティアは、続けた。
「……そう、ですね。何か、大切なことを忘れている、気がします」
なぜ、そんな言葉が出てくるのか、へカティアにはわからなかった。
へカティアの大切なものは、ここにあるはずなのに。
「それは、自分の望みや、幸せよりもかい?」
――どうなんだろう?
へカティアは自らに問うてみる。だが、答えは出てこない。
「……例えば、この三叉路のように、同じ人間に、別の時間が用意されているとしよう」
老婆はポツリと語り出した。
三叉路は、右は日陰がたくさん作られた住宅路で、左は何も遮ることの無い、眩しい白い道である。
「右の道は平穏な道だ。失うことはほとんどなく、奪われる痛みも伴わない。
左の道は困難だ。たくさんのものを失い、たくさんのものを奪われ、痛み付けられる。
さて、これらの道をそれぞれ進んだお前は、果たして同じ人間であろうか」
何かの謎解きだろうか。へカティアは少し考える。
へカティアはあまり、考えることが得意ではない。
一つのことを考えることは、心や時間を拘束されているようで辛い。そして、どれだけ一生懸命考えても、正しいこととは限らない。
それでもへカティアは、考える。
「私は私です。どんな環境にいても、私という人間は変わらないと思います。
……ただ、失った分、奪われた分、感じることは違うのでしょう。
私はもう、ここが自分の現実だとは思えません」
そう答えると、老婆は、「そうだろうね」と答えた。
「それに、沢山のものを失う困難な道には、一生を変える出会いがあるかもしれない。それを知ってしまったら、お前さんは『足りない』と思っても無理ないだろう」
どうする? と、老婆は尋ねる。
「右の道をいけば、今まで通りの生活が迎えられる。――左へ行けば、お前さんの望むものと同時に、失う痛みもあるかもしれない。
井戸の中のカエルが、空をめざして地面に打ち付けられるように、求めれば求めるほど痛みを伴うかもしれない」
へカティアは悩む。
へカティアは、痛いのは嫌いだ。失うのも。
大事な人はずっとそばにいて欲しい。他の人はいらない。変わらないで欲しい。身の丈に合わない願いで苦しむなら、願い事ごと捨てたい。
けれど、――へカティアはすでに、失いたくない存在になった『誰か』を知っている気がした。
そして、その『誰か』は、ここにはいないこともわかっていた。
へカティアは歩き出そうとする。目がくらむような白い道を。
だが歩み出す前に、「待ちなさい」と老婆が止めた。
「これを持っておいき」
手渡したのは、へカティアの手に収まる大きさのナイフだった。
「私は構わないんだけどね。私の配下は、途中で願い事を放棄するのを嫌がるから。これが役に立つだろう」
「……あなたは、一体何者なんですか?」
老婆は何も答えなかった。
「さあ、おいき。後ろを振り返るんじゃないよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます