第15話
◆
――その女神は、慈悲深い神である。
神とは気まぐれで、理不尽なものである。神話に生きる人間たちは、神の機嫌に振り回され、時に繁栄し、時に身を滅ぼした。
しかし、その女神はそうではない。
祈る兵士に勝利をもたらし、貧しきものに食事を与え、出産に苦しむ女の痛みと赤ん坊の憂いを取り除き、病気に苦しむ子どもの看護を担い、迷える亡霊たちを冥界へ送り届け、三叉路を通る旅人の安全を守る神だった。
彼女は、すべてのものに寄り添う光だった。
どんな願いも、彼女に祈りを捧げれば、彼女は必ず叶えてくれたのだ。
だが、人間たちはさらに救いを求めた。
「これでは足りない」と。
たまたま叶えられた幸運は、指をすり抜けるように去っていく。それを何とか留めて、確かなものにしたかった。
そして、人間たちは考える。
自分たちには、犠牲が足りないから叶えてくれないのではないか?
もっと捧げなければ。
そう考えて、人間たちは黒犬の子どもの首を切り落とし、祭壇へ捧げた。――その女神は、犬や狼をしもべとして率いていたからだ。
その女神はため息を吐いた。
そんなものがなくても、叶えてやるのにと。
すべての人間の願いを叶えられない理由は、その女神が公平だからである。順番に願いを叶え続ける前に、彼らは命を落としていた。おまけに、生きていれば願いや祈りは絶えない。
それでも、その女神は一つずつ叶え続けていた。
けれど、人間はその女神の慈愛を信じなかった。――人間たちには、無償の慈愛が存在しなかったから、取引をしなければ叶えてくれないと思い込んでいた。
それなのに、女神は叶えなかった。
女神は取引に応じない。
どんなものを捧げられても、女神は公平に願いを叶え続けた。
人間たちは怒った。
供物を捧げたのに、叶えてくれなかったと。
そんな役立たずな女神など死んでしまえ、と。
やがて女神に変わって、男神が優位に信仰された。
その男神は、取引に応じた。そして、捧げるものが多ければ多いほど、その人間を特別に庇護した。
神は、特別な人間しか叶えなくなった。
すべての願いを叶えていた女神は、光ではなく、おぞましい死臭と呪いを撒き散らす闇の女神として、隅に追いやられた。
首を切られ、命を奪われた三匹の黒犬は、闇の女神によって、三つ首の妖魔として甦った。
誕生と生と死を司る闇の女神でも、亡くなったものは元には戻らない。再び生を受けるなら、別の形にならなくてはならない。
闇の女神に心酔した彼らは、同時に、女神の慈悲を信じず、報いるどころか貶め続ける人間に対して怒り狂った。
人間を滅ぼしてやろうと言った三つ首の黒犬に、闇の女神はやんわりと断った。自分を必要としないのであれば、それはそれでよい。それでもまだ必要な人間がいるのであれば、願いを叶えようと。
……三つ首の黒犬は、悲しかった。
彼女の境遇を想って怒っているのに、肝心の女神は怒ってなどいなかった。
女神は、見返りを求めない。
どんな仕打ちを受けようと、いや、彼女は何一つ傷ついてはいなかった。
完成された女神。誰も敵わない、無敵の女王。
ゆえに無償の慈愛を持って、人々に与え続ける。
だから、この思いを女神は受け取ってはくれないのだ。
どれだけ慕っても、敬愛しても、狂信しても、彼女は三つ首の黒犬を必要としない。
三つ首の黒犬は、彼女のために何も出来なかった。
三つ首の黒犬は、冥界の番を任された。
退屈な仕事であった。生きているうちは、あんなにも下に見ていた人間たちも、巨大な三つ首の番犬の爪や牙を見るとたちまちすくみあがって、ぶるぶる震える。
時折冥界から逃げ出そうとして、三つ首の番犬の目をかいくぐろうとする亡者がいたが、ふわあ、とあくびをするだけで去っていった。
三つ首の番犬の唾液には毒があって、ポタリ、ポタリ、と落ちる涎は、やがてトリカブトとなって、彼の寝床はたちまち紫の花で覆い尽くされた。
ところが、ある日のことである。
まだ生きている人間が、三つ首の番犬の前に現れた。
その人間は、死んだ恋人を追いかけてやって来たという。
どうかそこを通して欲しい。
正直に申し出する人間の言葉に、三つ首の番犬は呆れ返ってしまった。
だが、同時にこうも考えた。
――それはお前の願いか?
番犬の問いに、人間は深くうなずいた。
――ならば、闇の女神に供物を捧げよ。
女神は求めなくても、三つ首たちには必要だった。
女神は供物を捧げなくとも、願いを叶える。
しかし犠牲がなければ、何かを奪わなければ、――何かを失わなければ、人間たちは幸運を信じない。
『何かを捨て、何かを成した』という手応えがなければ、彼らは生に満足しないのだ。
それなのに叶ったら、捨てること、奪われること、命が終わることを酷く嘆く。
「こんなはずじゃなかった」と。
なんて惨めで、滑稽で、愚かな生き物なのか。
自分から不自由に、不幸になっていく。そんな救いようのない生き物のことを、『人間』と呼ぶ。
■
まるで青銅の鐘を鳴らすように、風が轟いた。
清らかな音のような、怒りのようなその音の中で、へカティアは自分の記憶では無いものを見る。
(これは、三つ首の番犬の記憶?)
三つ首の黒犬――番犬は、それぞれ首を動かしながら、風を作り続ける。
ポタリ、と滴が落ちる。
皮膚に落ちたそれを、へカティアは指で確かめる。生ぬるい液体だった。
へカティアは、頭上にあるボルテの顔を見る。
表情はあまりかわらない。しかし、尋常ではない汗をかいている。
三つ首の番犬は、神話に登場する冥界の番犬だ。
その事を思い出し、ハッとへカティアは気づいた。
(この風、毒が混ざっているんだ!)
三つ首の番犬の唾液には、毒がある。
その唾液から生まれたのが、トリカブトの花。
毒の経由は口だけでは無い。皮膚や目などの粘膜からも吸収される。このまま吸い続ければ、へカティアの治癒魔法で治す前に死んでしまうだろう。
「ボルテさん、早く逃げて!」
風に負けず、へカティアは声を張り上げた。
だが、ボルテは動かず、黙り続ける。
「あの三つ首の犬は、私を狙ってる! あなたじゃない! 逃げて!!」
へカティアは何度も声をかける。だが、ボルテは動かない。
「……私のことはいいって、最初から言ってるでしょ!?」
反応の無さに、だんだんへカティアはいらついてきた。
――その態度は、かつて、『救国の聖女』とあがめた兵士たちがとってきた行為と重なる。
「私じゃなくて、ランパスを守ってって言ったじゃない! 役に立たないあんたなんて必要じゃない、押し付けられた自己犠牲なんて鬱陶しい、自分が気持ちよく酔うために私を使わないでよ!」
どん、と胸板を力強く殴る。
それでも、ボルテはぴくりともしなかった。
やがて風が止む。
三つ首の巨体は、へカティアに向かって動き出す。
……が、その前に、ボルテの動きが早かった。
引き絞る矢のように、ボルテが持っていたナイフを目に向かって投げる。
目を突き刺された三つ首の一つが、大きく仰け反る。
だが、三つ首の足は止まらなかった。
ボルテはうめき声一つもらさず、爪の斬撃を受けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます