第18話
へカティアのすすり泣く声が響く。
困ったな、とボルテが悩んでいると、ふと、へカティアが持っていたナイフを見つけた。
「……それは?」
ボルテの視線が動いたことに気づき、へカティアはぐしぐしと目元を擦って、はっきりと答えた。
「わからない。さっき、夢みたいな世界に行った時、おばあさんが持たせてくれたもので……」
メイスはどこかに行っちゃったし、とへカティアは答える。
「貸してくれ」
ボルテがそう言うと、どうぞ、とへカティアが手渡す。
ボルテは、革でできた鞘から取り出した。
「……これは、武器じゃないな」
「え?」
「鋸のような形をしている。いい鋼を使っているが、これじゃ押し引かなければ切り込めないだろう。先も丸いから、刺すことにも向いていない。……儀式用のナイフだろうか」
ボルテは首を捻る。
だが、へカティアは別の答えを口にした。
「これ、……帝王切開用のナイフじゃないかしら」
「え?」
「お父さんから聞いたことがある。普通のメスはほんの少し触っただけで切れるけど、帝王切開では赤ん坊をうっかり切らないよう、切れ味の悪いメスを使うんだって」
へカティアはぼんやりと、ナイフを見つめる。
「あのおばあさんは、出産の神でもあるって言ってた……」
そう言った時、へカティアは顔を上げた。
「ボルテさん、お願いして、いい?」
へカティアは、三つ首の番犬がいた場所へ戻る。
三つ首の番犬は、戻ってきたことに気づいたのだろう。足音と、唸り声が聞こえてきた。
それを聞いてから、へカティアはきびすを返す。
わざとらしく足音を立てて走ると、三つ首の番犬も足音を立ててこちらへ向かってきた。
『私の配下は、途中で願い事を放棄するのを嫌がるから。これが役に立つだろう』
老婆の言葉が、頭の中で甦る。
(やっぱり、あのおばあさんは、女神だったんだろうか)
へカティアは走りながら、考えていた。
ボルテにはああ言ったが、――こちらのへカティアは、父親の言葉など、ほとんど覚えていない。
けれどあちらの世界のへカティアは、父親と母親と一緒に、帝王切開で赤ん坊を取り上げた記憶があった。
あれは、女神からのヒントだったのではないか?
スペスと一緒に読んだ神話の絵本では、たびたび帝王切開の場面が登場した。死んだ母親の腹から取り上げられ、育てられた英雄。
もしへカティアの読みが正しければ、へカティアは三つ首の番犬の腹を裂かねばならない。
あの生き物にも「死」があるのだろうか。そう思った時、ランパスの死を思い出した。
(今から私は、あの犬を殺すんだわ。自分のために)
これが正しいのか、へカティアにはわからなかった。
へカティアは、自分の判断に自信が無い。正しいと思ったことは、地獄へ続く道だった。そのことを認める勇気がなく、認めた頃には何もかも手遅れだった。
これもまた、地獄へ続く道なのだろうか。
へカティアは、考える。
わからない。
けれどへカティアには、責任がある。
ランパスに言われるがままに、ここまで来た。
「人の役に立ちたい」というボルテの申し出に、何も考えなかった。
ランパスが「魔獣に襲われる」と叫んだから、目の前の子犬を殺した。
全ては、他者に思考を預けた、へカティアの怠惰から生まれたものだ。へカティアのツケに巻き込まれた人がいる以上、へカティアは判断しなければならない。
ある地点まで走って、へカティアは待った。
三つ首は、追い詰めたと言わんばかりに、一直線で走ってくる。
足が震える。
こちらへ向かってくる足音が、地面を揺らしているからか。それとも、失敗したら殺されるからか。
……何かを自分の意思で殺すことが、恐ろしいからだろうか。
(皆、死ぬ恐怖だけじゃなくて、殺す恐怖にも怯えていたのかな)
へカティアの前には、壁と壁の間に張った縄があった。
ふん、と三つ首の番犬は鼻を鳴らす。それを飛び越え、そのままへカティアを押しつぶさんと飛びかかった。
その瞬間を狙って、死角になった壁から、ボルテが槍――松明の先にナイフをつけたものを持って、飛び出した。あの女神から貰ったナイフだ。
三つ首の番犬が、表情を変える。だが、空中にいる番犬が、止まることはできない。
ボルテは爪の攻撃を掻い潜り、そのままナイフを皮膚に当てた。
鈍い刃でも、三つ首の巨体が落ちてくれば、自重でナイフは腹に刺さる。
ボルテはそのまま柄を短く持ち、体重を掛けるように皮膚を引き裂く。
なぜだ、と三つ首の番犬は叫んだ。
どうして女神は、人間を許すのかと。
他者を貪ってまで叶えようとするくせに、望みが一貫せず、叶えても「こんなはずじゃなかった」と拒絶する。そんな欲深く身勝手な生き物に、なぜ力を貸すのか。
へカティアは目を伏せる。その通りだった。それなのに、さらにこんな身勝手が許されるんだろうか。
そう思った時、尊大な風に振る舞う声を、へカティアは聞いた。
「しょうがないじゃない。アンタたちと違って、人間は忙しいのよ。望みなんてコロコロ変わるわ」
そのあっけらかんとした声は、へカティアがよく知るものだった。
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