第19話
腹を裂かれた三つ首の番犬は、いなくなっていた。
横たわるはずの死体も、染める血も無い。ただ空気に吸い込まれるように、跡形もなく消えていた。
代わりに、ボルテの手にはナイフではなく、ナイフと同じ大きさの鍵が握られている。
「……鍵?」
ボルテがへカティアに鍵を手渡す。
持ち手部分は円になっており、まるで迷路のような模様が描かれていた。その真ん中には、輝く星が刻まれている。
帝王切開用のナイフで倒したのだから、何か"生まれる"のではないか、と、そこまでは考えていたが。
(……これ、どうすればいいんだろ)
ボルテの顔を見るが、表情が読めない。
悩んでいると、ボルテが口を開いた。
「俺が彼女と本当に出会ったのは、あの市場じゃない」
その告白に、ヘカティアは驚かなかった。
「恐らくだが、あなたが脱獄した直後のことだ。俺は国から、あなたを連れ戻しに来いと命令された」
「……そう、なんだ」
動揺が滲むへカティアの言葉に、ああ、と単調に頷く。
へカティアも、何となくわかっていた。あの戦場にいたということは、彼もまた追手なのだと。
「その依頼を受ける前に、ランパスがやって来た」
「……え?」
「正確には、あなたたちを追いかけていた俺の前に、堂々と彼女が姿を見せた。
最初から俺の雇い主は、ランパスということになる」
……話の行方が、わからなくなる。
だが、同時にへカティアの頭に、ある出来事がよみがえる。
「もしかして追手が勝手に倒れてたのって、ボルテさんが倒してたの!? 影で守ってくれてたってこと!?」
へカティアはボルテの返事を待たずに続けた。
「なんで!? ずっと一緒にいたなら、姿を現してもいいじゃない! 市場で助けてくれた時も、さっさと消えようとしてたよね!?」
へカティアの言葉に、ボルテは口を噤む。
(なんで黙るんだろ?)
頑なに話さないボルテに、へカティアは頭の中に疑問符が飛び交う。
仕方ないので、へカティアは質問を変えた。
「……じゃあどうして、ランパスはあなたを頼ったの?」
「それは、わからない」
だが、とボルテは続けた。
「彼女は、『女神のもとへ帰らなければならない』と言っていた。
自分は、ずっとあなたのそばにはいられないと。
もしかしたら彼女は、俺があなたのことを知っているから、雇ったのかもしれない」
「……帰る?」
ランパスはこのダンジョンで、あの祭壇の中で死んだ。
その壁を割れ、下から深い穴から現れた。そこから三つ首の番犬が現れ、三叉路を作っていた壁はなくなり、ランパスの遺体は深い穴に飲み込まれた。
それは、『帰る』ということなのだろうか。
「さきほど、ランパスの声を聞いた」
「ボルテさんも?」
「あなたには、幻覚が通用しないんだったな。なら、あの声は本物のランパスなんだろう。
一度、あの祭壇へ戻ってみないか。もしかしたら……」
そこで、ボルテは口をとざす。
恐らく、『ランパスが生き返っているかもしれない』と続けようとして、余計な希望を持たせないよう止めたのだろう。
へカティアはうなずいた。
三叉路に戻ると、あの祭壇も、ランパスの遺体もなかった。
――代わりに、三叉路の道が十字路の道になっていた。
壁の代わりに現れた道は、すぐに暗闇に飲み込まれ、先が見えない。
「……行きましょう」
へカティアは新たに出来た道に足を踏み入れる。松明を持ったボルテは、彼女の隣を歩いた。
「何か、話していい?」
へカティアの言葉に、ボルテは何も返さない。
これは了承したということだろう、と判断して、へカティアは続けた。
「私ね、お母さんのこと、よく知らないの。私が小さい時にいなくなったのもあるけど、逃げてきた故郷の話はしなかったから。
だけど多分、あの三つ首の犬が言ってたことは、本当だと思う。私が、『女神を崇拝する魔女の末裔』だって」
女神様の名前すら知らないけど、とへカティアは続けた。
「でも女神は、特別扱いをしない。崇拝する魔女であっても、三つ首の番犬だろうと、公平に願いを叶える。
それって、とても優しいけど、残酷だと思う。……というより、優しいって、残酷なのかもしれない」
三つ首の番犬の最後を思い出す。
なぜだ、という言葉には、「どうして自分の方を見てくれないのだ」という、切実な願いがあった。
人間によって殺され、女神によって生き返った番犬。
へカティアにでさえ、三つ首にとっての女神が、どれほどの救いになったのかわかる。
彼女のために怒っていた。
あの女神は、三つ首の想いを知っているのだろうか。
知ってて、へカティアにナイフを渡したのだろうか。
それは、どれほど三つ首に絶望を与えただろう。
「……だが、それは救われた者の勝手な想いだ」
独り言を言うつもりで言っていたのに、意外にもボルテから返事が来た。へカティアは思わずボルテの顔を見る。
「救った者に自分の想いを押し付け、押しつぶしていい理由にはならない」
「……そう、なのかな」
へカティアの言葉に、そうだ、とボルテは断じた。
それと同時に、へカティアとボルテの足が止まる。
そこは、行き止まりだった。
正確には、壁に巨大な扉が備え付けられている。
松明で照らすと、壁画が描かれていた。
三つの首を持った女神の絵だ。その隣に、古代文字で書かれている。
「……あ」
その女神の絵が、あの老婆と出会った時にあった女神像のものだと、へカティアは気づいた。
次に、へカティアはその古代文字に目を通す。
「そっか。……『天』と『地』と『海』を司る神様だって言ってた」
ランパスは言っていた。『海』と『空』、どちらを選ぶかと。へカティアは『海』を選んだ。
そして、この扉は、『地上』と書かれている。
扉には、ちょうどへカティアの手に届く位置に鍵穴があった。
へカティアは、持っていた鍵に差し込む。
差し込んだ瞬間、扉はゆっくりと開かれた。
扉の向こうから、松明の光すら消し飛ぶほど眩い光が、へカティアとボルテを包んでいく。
「へカティア!」
ボルテの声が響いた。
ボルテの姿は見えない。けれど必死に、へカティアはボルテの声の行方を探す。
「あなたがどんな道を選ぼうと、あなたが自由に考え、判断することを望む。
それが、俺の――俺たちの望みだ!」
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