第20話
へカティアの目の前には、星空が広がっていた。
アメジストとラピスラズリを砕いて混ぜた夜空に、銀河が薄く輝いている。
その上で強い光を放つ星々は、様々な形の光を放っていた。
空は地面に近づくにつれ、複雑に入り交じった色からだんだん透明で単調な青に変わっていく。
真っ黒い丘が地平線を隠し、いくら見渡しても途切れない空を閉じ込めていた。
自分はなぜここにいるのか。――そんな疑問が吹き飛んでしまうほど、へカティアは口を開けて魅入っていた。
いつか神話の絵本で見たような星空。電灯やガスによって見えなくなった満天の星を、へカティアは生まれて初めて見た。
「こっちよ、へカティア!」
ランパスの声が飛んできた。
へカティアは辺りを見渡す。
姿はどこにもない。丘に隠れているのだろうか。
「ランパス! どこ!?」
へカティアは、丘を登って探す。
「こっち、こっち!」
声を頼りに、へカティアは歩く。
どれだけ歩いても位置が変わらない星の空と、どこも同じように広がる丘。
その果てしなさに、へカティアは、自分がとてもちっぽけな存在に思えた。水の中を掻き分けるような疲労感と同時に、意識や身体が溶け込んでいくような感覚に浸る。
悪くない、と思った時、へカティアは声の持ち主を見つけた。
丘の上に立つのは、夜空のような黒い、大きな犬だった。
心臓が早鐘を打つ。
苦しいほど酸素が身体を駆け回り、身体が「私はここにいる」と主張し始める。
会いたかった。
もう会えないと思った。
なんで、どうして、ここに?
戸惑う反面、心のどこかで、「わかっていたでしょ?」と、もう一人の自分がささやく。
それでも目元が熱く、視界がぼやける。
たまらなくなったへカティアは、犬の前で膝をついた。
「ランパスは、スペスだったんだね……」
言葉にしたとたん、涙はあふれて止まらなかった。
赤く光る瞳は、膝をついて泣いているへカティアの姿を映していた。
黒犬――スペスであり、ランパスである彼女は、高い鼻をへカティアの頬にちょん、とつけた。
冷たく濡れた鼻の感触に、へカティアは顔を上げる。
「アンタにはずっと黙ってたけど、アタシ、もう死んでるの」
スペスの姿から、ランパスの声が響く。
(口を開いてないのに、変なの)
場違いにも、へカティアはそう思った。
「アンタ、アタシが死ぬ間際――スペスの時、大量に魔力を送り込んだでしょ」
へカティアは思い出す。
死んで欲しくなくて、ひたすら冷たくなったスペスの身体に魔力を込めた。
けれど魔力は身体を循環せず、スペスは目を開けたまま息を引き取った。
「アンタは迷信だってバカにしたけど」ランパスが言う。
「アタシたち『ブラックドッグ』は、闇の女神の配下なの。死に近い人間の前に現れて、その魂を冥界へ導く役割を持っていた」
『ブラックドッグ』。見たら死ぬと言われる、黒犬の妖魔。
へカティアは黒犬を見る。
「……私を抜きにしても、あの時、誰も死んでないよ?」
「アタシは途中で役目を放棄したから、魔力のない普通の犬になったのよ。ってか、多分肉体ごと冥界に引きずり込めば関係ないわ。三つ首の番犬も、アンタを冥界に引きずり込む気満々だったし」
ブラックドッグっていうのはそういう存在なの。そうランパスは言った。
「本当は普通の犬として死ぬはずだったんだけど、アンタの魔力で魂が残った。でも犬の体は死んでいたから、別の形をとるしかなかった。
ランパスとしての姿は、幽霊みたいなもんね。肉体がないから燃費悪くて、あんな小さな姿しかとれなかったけど」
聞いて、と黒犬は言った。
「ランパスとしてのアタシには、時間がなかった。魔力が動力である以上、アンタを守るために魔力を使えば、その分ランパスとしての時間は減る。
その間、アタシがアンタに与えられる希望は三つ。その一つが、アンタの両親が生きている世界へ連れていくことだった」
アンタ、両親の帰りを待っていたでしょう。
その言葉に、へカティアは涙を拭う。
(本当に、ランパスはスペスだったんだ)
ベッドの上で相棒は、退屈そうにしておきながら、へカティアの話をずっと聞いていた。……両親が死んだとわかっても待ち続けていたことを、忘れないでいてくれた。
「……どうりで変だと思ったのよ。うちの両親、あんな風に甘やかしてくれるような人じゃないから。
あれはランパスが叶えてくれた、私の願望だったのね」
そう言うへカティアに、「違うってば」とランパスは答えた。
「女神の『時を取り戻す』魔法は、本当の時間。あそこにいたアンタの両親も本物。
戦争さえなければ、きっとああやってアンタの成長を喜び、少しだけさみしがり、そして背中を押してた。
むしろ、違和感を感じたのは、アンタ自身だったんじゃない?」
ランパスに言われて、へカティアはうなずく。
幸福な世界で、これは自分の人生ではないと、強く感じた。
あの世界では、スペスとランパスに会うことは出来ない。
両親がいないから、へカティアはさみしかった。さみしいから、道端にいた黒犬を連れて来た。
両親がいる世界の自分と、ランパスと出会う自分は、全く別の人生を歩き、その考え方、感じ方も違ったことだろう。
「……まあ、アンタなら、『海』も『空』も拒絶しそうだから、もう一つ選択肢を増やしたのよ。それがボルテ」
「ボルテさん……」
ハッと、へカティアは思い出した。
「ボルテさんは!? さっきまで一緒にいたのに!」
「気づくの遅い」
バッサリとランパスが切り捨てる。
「ボルテは先に『地上』に戻ってるわ。アンタがこの道を選ぶなら、彼に会うことができる」
この道は、ダンジョンから帰る方法なの。と、ランパスは言った。
「取り返したい過去がある『海』にも行かず、時を進める『空』にも行かない。今を選んだ人間が帰る道が『地上』よ。……あの男には、本当に何も無かったのね」
アンタ以外は。
ランパスの言葉を、へカティアは拾えなかった。
「『空』に行ったら、どうなるの?」
「全てを終わらせて、遠い未来で新しい自分になるわ。要するに、『生まれ変わり』ってやつね」
つまり、とランパスは続けた。
「死ねないアンタは、死ねるアンタになれるってこと。代わりに、今までの自分は全部なくなる。思い出も人格も全くの別物になるわ。
アンタは殺しても死ねない『不死身』ではあるけど、不老不死ではないと思う。でも、確証はない。
『海』を選んでも、アンタは死ねないことに苦しむかもしれない。そう考えると『空』は、割といいかもしれないわ」
これが最後よ、とランパスは言った。
「アンタは、どうしたい?」
へカティアは、目を閉じる。
そして、ゆっくりと目を開いて、笑った。
「ま、そうよね。
アンタ、『海』って答える時も、迷ってたし。
犬一匹のために、帰ってきちゃうんだもの」
「だって私、どこにも行きたくなかったもの」
へカティアは泣きながら笑った。
「スペスと、――ランパスと一緒に行きたかったの」
でも、それは無理なんだよね?
舌足らずの幼児のように尋ねるへカティアに、ランパスはうん、と答えた。
「アタシの命は終わった。それはもう、覆しようがない。
むしろ、ランパスとして与えられた時間の方が奇跡なのよ」
「私、どこにも行きたくない」
へカティアは声を震わせながら言った。
「あなたと、ずっとここにいたい。
何もなくていい。あなた以外いらない。あなたがいない世界なんていらない」
でも、とへカティアは立ち上がった。
「多分だけど、……ボルテさんが、待ってくれてる」
へカティアの言葉に、ランパスはそうね、と返した。
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