第5話

 ◆


 猛烈な悪臭がする。

 そこに妙な甘ったるさがあって、胃の中がせり上ってくる。

 彼の皮膚を撫でれば、汚れきった脂でベタベタした。昔は触ることを躊躇ったこともあったが、今はもう何も感じない。

 包帯を外せば、膿んだ傷が落ちる。患者から悲痛な声が出る。替えのきく重傷者が多すぎて、放置されたゆえの痛みだった。

 へカティアはそれを、聖魔法できれいに治す。

 それに兵士が、涙を流した。


『ありがとう、聖女さま』

『こんな汚い俺を助けてくれた』

『助けてくれた聖女さまのために、命を懸けてきます』

 

 治しても治しても、怪我人は減らない。

 当たり前だった。

 へカティアが治す度に、彼らは死地に送られていく。

 

 この世界では、役に立たない、不必要な人間は存在を無視される。

 まるで存在していないかのように、あるいは『見たら汚れる』モノとして扱われる。だからひたすら、自分たちが社会に貢献できる存在だと証明し続けなければならない。

 そのためには、任された任務は、達成しなければならなかった。

 ――皆、使命のために、誇りを持って散っていった。

 ――それが本当は、ただ、搾取されているだけだとしても。



 ◆



 はっと、ヘカティアは目を覚ました。

 薄暗く、かび臭い石造りの空間に、ヘカティアは息をのむ。

 地下牢に閉じ込められていた記憶がよぎる。

 感覚が急にあの頃に戻る。寒くないのに、震えが止まらない。手足がどこか、遠い場所に行ったように感じた。


「どうした」


 低く、静かな声が反響し、へカティアの耳に届いた。

 ボルテが、膝を立ててこちらを覗き込んでいた。

 

「……ボルテさん」


 へカティアは身体をゆっくり起こした。

 震えはいつの間にか止まっている。

 ここは『時のダンジョン』の中だった。


「だ、大丈夫です。それより、すみません。不寝番任せてしまって」

「構わない。………よく眠っていたな」


 そっと、ボルテがランパスの方を見る。

 ランパスは光り輝いたまま大の字になって、いびきをかいていた。

 かあ、っとへカティアの頬に熱が集まった。


「あ、あはは……普通、ダンジョンで爆睡しないですよね。すみません……」

「いや、眠れたのならよかった」


 腰を下ろして、ボルテは言った。


「これぐらいの役目がなければ、用心棒としての顔が立たない」


 ボルテの言葉に、へカティアは眠る前のことを思い出す。

 ダンジョンには、そこに住み着いている魔物がゴロゴロいたが、ランパスが光の魔法で目くらましすると、大概の魔物は視界を奪われた。今までへカティアを捕まえようとした追っ手は、大概はこの手で無力化できた。

 だが、視界を奪ったとしても、暗い世界で生きる魔物はそもそも、嗅覚や聴覚に頼って生きている。不快感を与えることは出来ても、退けることはできない。

 そこでへカティアは、その怯んだ一瞬を狙って、持っていたメイスで魔物の頭部を破壊した。そのまま、奥まで押し切ったのである。


「見事だった。俺は必要なかっただろう」

「そんなことないですよ。私ができるのは、突貫するだけです」


 身体から熱が出ていく。

 へカティアは足を抱えて座った。

 地面に手をつくボルテの腕は、さきほどへカティアを守ってついた傷があった。今はへカティアの治癒魔法で、跡形もなく消えている。

 ――それを見るたび、へカティアの脳裏に、あの満面の笑みで感謝する兵士がよぎるのだ。


「……私はちょっとやそっとやじゃ死なないので、守らなくて結構です」


 まるで溶けた氷を噛んだように、するり、と言葉が出てきた。

 

「ボルテさんにはランパスを守ってください。あの子、そんなに強くないのに、すぐ見栄張るから」


 へカティアがそう言うと、ボルテの黒い目がこちらをじっと見つめていた。

 綺麗な目だと、へカティアは思った。

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