第7話
息は苦しくない。だが、へカティアはとっさに水上へ目指す。
バシャア! という音とともに、海鳥の歌声が鮮明に聴こえた。
塩辛い味が口の中に広がる。水中にいた時は感じなかったのに、今は少し器官に入っただけで苦しく、小さく咳き込んだ。
水をたっぷり含んだ髪が、皮膚に張り付いてうっとうしい。
「な、なにこれ……どこ?」
辺り一面、空と、海。
見下ろすと、やはり水底まで透き通っている水。両手ですくうと、なんとなくぬくかった。
触覚も匂いも音も、全てが鮮明。幻覚などでは無い。
「ランパス! ボルテさん! どこ!?」
動く度に立つ水しぶきの音と、へカティアの声が、抜けるような青空に吸い込まれていく。
反響しやすい地下牢やダンジョンとは違い、その声はあまりにもちっぽけで、誰の耳にも届きそうにない。
「どうしよう……」
途方に暮れたへカティアが、顔をうつむいた時だった。
「へカティア!」
……懐かしい声が、穏やかな風とともに、へカティアの耳に届く。
へカティアは後ろを向いた。
白い砂浜に、二人の影がある。
逆光を浴び、姿は見えない。だが、へカティアは直感した。
「へカティア、そろそろ休まないか?」
「ご飯食べに行きましょう」
落ち着いた深い声色が、へカティアの記憶を甦らせる。
ずっと忘れていたその声を、へカティアは鮮明に思い出した。
へカティアは重い水をかき分ける。
砂底に足がつく。さらりとした砂のなかに貝殻の破片が混ざって、ちくちく足裏にささる。
やがて海から出た時、へカティアはその二人を呼んだ。
「お父さん、お母さん!!」
肺と喉が裂けそうなほど、へカティアは声を張り上げる。
蹴った砂浜が焼き付いて熱い。
けれど、へカティアには関係なかった。
熱い何かが混み上がって、やがて目からこぼれ落ちる。
「どうしたんだい、へカティア? まさか、溺れていたのかい?」
泣いているへカティアに、父が心配そうに尋ねてくる。
震える声で、へカティアは返した。
「嬉しいの。二人がここにいるのが。夢みたい……」
そう言うと、二人は柔らかく微笑んだ。
「これからは、へカティアがしたいことができるわよ」
母の言葉に、へカティアは思い出す。
(そうだ、私、二人と一緒に海に行きたかったんだ……)
戦争が終わったら。二人が帰ってきたら。
――二人と一緒に、海に行きたかった。
■
……ボルテが目を開けると、そこには何も無かった。
そして、後ろを振り向く。――へカティアがいない。
「あの子なら、無事に『海』へ行ったわ」
くり抜かれた壁に腰掛けて、ボルテは言った。
「……俺たちは、一緒には行けないのか」
「ええ。だってアンタ、あそこにいた犬、殺してないでしょ?」
「やはりあれは、魔獣ではなく、ただの犬か」
ボルテの言葉に、ええ、とランパスは同意した。
「へカティアには軽く幻覚見せて、魔獣が襲って来たかのように見せたけどね」
「噛まれた感覚はあったが、それも幻覚か?」
ボルテの腕には、確かに噛まれた痛みと感覚があった。血の匂いも、ぬめりとした液体の感覚もした。
「それはね、へカティアが先に殴り殺したから、普通に犬が反抗したのよ。痛みは本物」
「……そうか」
ボルテは目を伏せる。
ランパスは、古代文字が刻まれた壁に頬を寄せる。その顔には、すでに生気は感じられない。
「ここは女神の祭壇なのよ。
闇であり、地下であり、過去と今と未来を司る、三面の女神。供物――犬の首を捧げると、捧げた相手の望みを叶えてくれる」
けど、とランパスは続けた。
「アンタも市場で、アタシに供物を捧げたわ。へカティアを探しに行きたいなら助けるわよ」
「――この先には何がある?」
「……さあね」
ランパスは赤い瞳を閉じた。
「もしかしたら、帰って来ないかもしれないわ。それでもいいと思ってる。
あの回復魔法がある限り、あの子は不死身よ。失うものがない停滞した生なんて、死んでることと変わりない。だったら、ずっと幸せな空想に閉じ込められるのもいいじゃない」
あの子は、一人ぼっちなんだから。
ランパスは膝を抱える。だが、だんだん細くなっていく腕は、まるで糸が切れたマリオネットのように、だらんと降りてしまった。
「……アンタは、どうしたい?
あの子のために死ぬ?
それとも――自分のために、あの子を生かす?」
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