過去に何度も訪れた屋敷の中を、慣れた足取りで二階へと上がっていく。

「……事態は変わるだろうか」

 イリオンはアレイドに対して呆れていたが、感謝してもいた。オルテリアンの過去の悪行が公になる日など来ないと思っていたからだ。

 しかし懸念けねんは消えない。この夜のことを知られまいとして、オルテリアンがイリオンを槍玉に挙げるかもしれない。

 そうならないことを祈りながら、イリオンは子ども部屋まで進んだ。いい思い出と悪い思い出、両方が詰まった扉を開けた。


 ニャンシャは逡巡の後にソファから腰を上げた。

「ごめんなさい、わたしもちょっと休んでくるわ」

 と、声をかけて廊下へ向かう。予想もしなかった事実にめまいがしそうだった。

「あっ、待って!」

 と、ノエトの声が背中に聞こえる。いつものようについてくる気でいるらしい。

 かまわずにニャンシャは歩き続け、人気のない玄関ロビーまでやってきた。先に出ていった三人がどこにいるのか知らないが、やけに屋敷の中はしんとしていた。

「ニャンシャ」

 名前を呼ばれてはっとする。いつの間にか、扉の前で無意識に立ちつくしていた。

 振り返ると、いつになく弱気な顔でノエトが言う。

「外に出るの? そのままだと寒いよ」

 無知だった少女は言い返す言葉を持たない。ただドレスのポケットからハンカチを取り出して彼へ差し出した。

「顔、拭きなさいよ」

「あっ、うん」

 ノエトはびっくりしながらも白いハンカチを受け取り、涙と鼻水で濡れた顔を拭いた。

 ロビーに設置された一人がけのソファへ座り、ニャンシャは息をついた。

「まだ信じられないわ」

「おじさんのこと、だよね」

「ええ。わたしも彼には気に入られていたのに、体を触られたことはなかった」

 触られたかったわけではない。むしろ触られなかったことでほっとしている。ミランシアや兄、そしてノエトのような思いをせずにいられて、ニャンシャは自分が幸福な立場にいるのだと知った。

「触られなくてよかったとは思うけど、まさかノエトまでそんな目に遭ってたなんて……なんだか、本当に申し訳ないわ」

「どうしてニャンシャが謝るの? 何も悪くないのに」

「……そうよね」

 うなずくニャンシャだが、やはりノエトを見ると複雑な気持ちになる。

「でも、どうしてわたしは何もされなかったのかしら?」

「うーん……それってもしかして、さ」

 ノエトが本棚へ軽くもたれかかり、正面に見える階段を見ながら言う。

「ボクがそばにいたから、だったりして」

「え?」

「ボクね、おじさんに体をさわられた時、たまたま近くに誰もいなかったんだ。いや、そうじゃないかも。たしか、ニャンシャが他の子たちと遊んでた気はするんだけど」

 と、弱い頭で必死に記憶を思い出そうとする。

 ニャンシャはふっと笑って返した。

「あなたの言いたいことは分かったわ」

 そうだ。思い返せば、ずっとそうだった。

「わたしのそばにはいつも誰かがいたものね。今もそうだけど、昔は特にそうだった。ノエトなんて、ずっと変わらずそばにいてくれてる」

 ノエトが頬を赤くしてはにかんだ。

「だって、キミのことが大好きだから」

 飽きるくらい聞かされてきた台詞が、今のニャンシャにはとてもありがたく感じられた。自分は彼に助けられていたことを知り、初めて自分自身を恥じた。

 きゅっと胸をつかまれたように心臓が痛み、ニャンシャは泣きそうになりながら言う。

「……わたし、無知だったわ」

 世界は自分を中心に回っていると思っていた。それがいかに狭い箱庭だったことか。壁一枚隔てた向こうにあるのは、遠く想像も及ばない世界だった。

「ボクもだよ。それでよく兄さんに怒られる」

「わたしには怒ってくれる人がいないわ。あなたがちょっと、うらやましいかも」

 イリオンがノエトを抱きしめる姿を脳裏に思い返す。

「わたし、リオお兄様に抱きしめてもらったこともないの。きっとそれも、周りに他の人たちがいたからね」

 兄があんな優しい顔をする人だとは知らなかった。何を考え、抱えこんでいたのかも知らず、ニャンシャは今度こそ現実の世界と対峙たいじすべき時であることを思い知らされる。

「ノエト、あなたのこともちゃんと知るべきだった。何も気づかなくてごめんなさい」


 居間にいた人間は半数になっていた。空のグラスをもてあそびながらキシンスは言う。

「オルテリアン氏は、今どこにいるんだろう」

 やることがなく様子を見ているばかりのタルヴォンは答える。

「おそらく二階の書斎、階段を上がった正面の部屋にいると思います」

 彼が出ていった後、上から扉の開閉する音がした。屋敷のことを熟知している執事には、音だけでだいたい分かる。

 キシンスが「そうか」と、どこかうわ言のように返した。

 会話がなくなり、タルヴォンは何気なくポケットから懐中時計を取り出し、時刻を確かめた。二本の針は八時四十六分をさしていた。

 アレイドはすっかり酔いが醒めたようで落ちこんでおり、メロセリスはそんな彼を気遣うようにちらちらと様子を見ている。

 ふいにキシンスは立ち上がり、タルヴォンの方へ顔を向けた。

「ルーヴォ。お手洗いに行きたいんだけど、案内してくれるかい?」

 と、空のグラスを渡す。

「はい、すぐにご案内します」

 受けとったグラスをワゴンへ置いてから、タルヴォンはキシンスを連れて居間を出た。

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