絵描きの絵

 スィルシオおじさまが誰かに殺されても、私は特に何の感情もわかなかった。我ながら残酷なほど、悲しいとか辛いとか、全然思わない。

 ただ、この状況にはちゃんと動揺していた。

「さっき聞こえた銃声って……」

 ほんの少し前に誰かがおじさまを撃ったことは、あまりに現実味がない事実だった。


 ――妹のニャンシャは美少女だった。小さな頃から可愛らしくて、私は姉として彼女のことが好きだった。でも、両親があまりにも彼女にばかりお金をかけるため、成長とともに私は自分の置かれた境遇のむごさを知らずにはいられなかった。

 使用人たちもみんな妹ばかりをちやほやして、私を見てくれる人はいなかった。唯一の救いは鉛筆とスケッチブック。絵を描くことだけが楽しくて、束の間、嫌なことから目を背けていられた。

 だけど両親も好きで私を見ないのではなく、機嫌がよければ絵の具や筆を買ってくれた。私にもお金を使ってくれたのだ。

 これだけでいいと思っていた。私は妹と違って美少女じゃない。美しくもなければ可愛くもないし、性格も正反対で暗いから。好きな絵を描くことが許されているのは、むしろ温情だった。


 外の世界は家の中とあまり変わらなかった。

 貴族に生まれながら絵を描いてばかりいたから、わたしは浮いていたのだろう。おじさまの屋敷へ遊びに行った時、女の子たちが私の手からスケッチブックを奪った。

「あっ」

 描きかけの絵に変な線ができてしまった。

「まあ、下手な絵! こんなことして何の意味があるのかしら?」

 一つ年上の、裕福な家の女の子が言った。

 周りの子たちも口々に「時間の無駄よ」「下手なくせに」と、好き勝手なことを言う。

「や、やめて! 返してよっ。わたしのスケッチブック」

 震えながらそう返したが、あろうことか女の子はスケッチブックを遠くへ放り投げた。

「ほーら、取ってきなさいよ」

 私は自分が何をされているのか、気づいていた。これは犬だ。

 恥を忍んで取りに行こうとすると、後ろから背中を押されて転ばされた。

「きゃっ!」

 振り返ると女の子たちが私を取り囲んでいた。

「知らなかった? 犬は二本足で歩かないのよ」

「ほら、四つんばいになりなさいよ」

 怖くて涙があふれ、少しも動けなくなった時、二歳年上の男の子が間に入ってくれた。

「何してるんだよ!」

 女の子たちは途端に不機嫌な顔をし、何もなかったかのように去っていった。助かった。

「大丈夫だったかい、ロセ」

 優しく手を伸ばしてくれたのはアレイドだった。大きな畑を持つ農家の長男で、彼の弟が妹と同い年だから、小さい頃からよく知っていた。

「うん、ありがとう」

 彼の手を取って立ち上がり、ドレスを軽くはたく。お母様のお下がりを仕立て直したものだったから、今さら汚れても何も思わなかった。

 拾い上げたスケッチブックは一部が泥につかったようで、汚くなっていた。前日は雨だった。

 見ていたアレイドが心配そうに言う。

「さっきのこと、おじさんに言ったら? きっと助けてくれるよ」

 スケッチブックをぎゅっと胸に抱き、私はうなずいた。この時はまだ、おじさまを信じていたのだ。

 彼に連れられるようにして屋敷へ入り、おじさまを探して書斎へたどり着いた。

「スィルシオおじさん、話があるんだ。さっき、メロセリスが庭で――」

 アレイドがそう切り出すと、おじさまはこちらを見ずに言った。

「ああ、何だか騒がしかったようだね」

 戸惑う私の背をアレイドがそっと押してくれて、私は勇気を出して口を開く。

「あっ、あのね、エルミンちゃんたちが意地悪するの。わたし、やめてって言ったのに」

 ゆっくりと顔を上げたおじさまは、私を見て微笑んだ。

「なんだ、そんなことか。大丈夫だよ」

「だい、じょぶ……?」

 何を言われているのか分からなかった。私が汚れたスケッチブックを持っていても、おじさまは何も思わなかったのだ。

 立ちつくす私たちへおじさまは言った。

「君たちは外に出て遊んでいなさい。すぐに僕も行くから」

 きっとタイミングが悪かったのだと、その時は思った。仕事が忙しくて私のことを気にする余裕がなかったのだ。だから、


 女の子たちからのいじめはしばらく続いた。アレイドが助けてくれることもあったけど、そうじゃないこともいっぱいあった。

 成長とともに見える世界が増えてきて、自分がどんな立場にいるかを理解するようになっていく。

 私に与えられた役名は「その他大勢」だ。貴族の生まれであっても名前のない役どころ。いてもいなくてもいい存在だ。

 ある時、おじさまの屋敷に行きたくないと、勇気を出して両親に訴えたことがある。お父様もお母様も理解できない顔をした。

「あそこは楽しいところだろう?」

「わがまま言わずに行ってらっしゃい」

 私に何があったのか、たずねてもくれない両親。その四つの目はいつも妹へ注がれていて、私は子どもながらに両親に期待するだけ無駄なのだと悟った。

 そしておじさまの目も私には向けられていない。妹ニャンシャを始めとした、お気に入りの子どもたちにばかり向けられている。そこにはリオお兄様も入っていた。

 意地悪な女の子たちの中心人物がどこか遠くへ引っ越すと、他の子たちは散り散りになって、おじさまの屋敷へ来なくなった。私は変わらず、庭の隅で絵を描いて過ごしていた。たった一人で絵を描く。寂しいけれど辛くはなかった。

 絵を描いている間は、どんな嫌なことも忘れていられたから。


 ある時、ニャンシャが無邪気な顔でたずねてきた。

「ロセお姉様はおやつ食べに行かないの?」

「え?」

 スケッチブックから顔を上げて、私は気づいてしまった。彼女はおじさまからおやつの話を聞いたのだ。でも、私は知らされていなかった。

 心臓がドキドキと嫌な感じに鼓動を打ち、ごまかすようにスケッチブックへ視線を戻す。

「あ、うん。ニャンシャちゃんは行っていいよ。私はもう少し、ここで絵を描いていたいから」

「そうなの? 分かったわ」

 ニャンシャが去ってから少し経つと、二階が騒がしくなった。一番広い子ども部屋だ。そこにはおじさまがいて、彼の好きな子どもたちがいる。

 考えたくなくて絵を描いた。ずっとずっと絵を描いていた。

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