思い返せば、いくつも心当たりがある。

 両親はいつもわたしを可愛がっていたし、使用人たちもそうだった。お姉様のことを気にかけていた人など、はたしていただろうか。

 おじさまもそうだ。わたしに美味しいケーキを食べさせてくれたけど、お姉様の席はなかった。彼もお姉様のことを見ていなかった。

 誰にも見てもらえない恐怖をわたしは知らない。誰にも褒められず、可愛がられないことがどんなに寂しいことか、わたしにはちっとも想像がつかない。

 知っていたはずなのにちっとも理解していなかった。そう気づくと同時にどうしようもないことを悟った。お姉様とわたしでは違いすぎて、どうしようもなく深いみぞがある。わたしが腕を伸ばしてもお姉様には届かない。

 なんて世界は不公平なのだろうかと、その晩、お姉様を思って泣いた。


 でも、例外というものはどこにでもある。おじさまの元で働いている執事、タルヴォンだ。

 お姉様は大人になってから、街の東にある川辺かわべりで絵を描くようになった。お気に入りの場所らしく、毎日のようにそこへ行ってはイーゼルにキャンバスを置き、パレットに絵の具を出して筆を握った。

 彼女の絵は上手いけれど、たぶん芸術的な価値はない。わたしのよく知る国立劇場を覆う天井画には、とうていかなわないからだ。

 それでも彼女には絵しかないから、わたしも家族も口を出さなかった。

 ある時、川辺りでお姉様が誰かと話しているのを見たことがある。意外なことにタルヴォンだった。ミランシアの犬を連れていたから、きっと散歩の途中なのだろう。

 二人は親しげに会話をかわしていて、わたしはすぐにぴんときた。きっとそういう仲なのだ。

 知らなかった。あのお姉様があのタルヴォンと? でも、考えてみると変な感じもする。だって彼は執事、恋愛をしている余裕なんてあるのかしら?

 いいや、あるはずがない。ミランシアは彼のことを「仕事一筋」だと言っていたし、実際に彼を見ていてもそう思う。少し前にいいなと思ったことがあったけれど、どう迫ればいいか分からなくてあきらめた。彼には隙がないのだ。

 だけど本当にそういう仲だとしたら、お姉様も少しは変わりそうなものだ。恋をすると女性は明るくなって、生き生きとするはず。

 やっぱり勘違いかもしれないと思い、わたしは何も見なかったことにした。どうせお姉様に聞いても答えてくれないのだから、気にするだけ無駄だ。

 でも……でもやっぱり、気になる。

 タルヴォンは背が高くて顔も悪くない。優しいから、子どものうちは彼に思いを寄せている女の子も少なくなかったわ。彼を恋愛対象にしたくなる気持ち、よく分かる。

 そんな彼はわたしを直接褒めたことがない。彼の口から可愛いだとか美しいだとか、そうしたことを聞いた覚えが一度もなかった。

 執事だからそんなものかと納得していたし、特定の人と恋愛関係に発展することからして難しい相手だと思った。そう、お姉様といるところを見るまでは。

 すると何だかムカついてきて、どうせ恋愛をするなら、お姉様ではなくわたしのはずだと思い至った。

 だってわたしは世界一の美少女。胸だって他の女たちより大きくてふっくらしているのよ。

 わたしが本気で迫れば、いつかは落ちるはず――彼へ会うために、おじさまの屋敷へ行く日々が始まった。


 最初の日、従者を敷地の外に待機させて、わたしは一人で中へ入った。

「ねぇ、ルーヴォ。あなたのことを教えて」

 何気ない会話をよそおってたずねると、庭の花壇に如雨露じょうろで水をやっていた彼は目を丸くした。

「は?」

「だから、あなたのことを教えてって言ったの」

 すぐそばにぴったりとくっつくが、タルヴォンは横へと移動する。

「今日はどんなご用件でしょうか?」

「あなたのことを知りに来たの」

「旦那様でしたら、今日は工場に行って――」

 全然乗ってこない。

「そうじゃないわ! わたしはルーヴォのことが知りたいのっ」

 と、大きな声を出せば、執事は困ったように笑ってみせた。

「私のことを知ってどうなさるおつもりです?」

「どうって……その、えぇと」

 彼のそばへ再び寄りつつ、上目遣いをしてみせる。これでだいたいの男が落ちるのだが……。

「お暇なら他を当たってくださいますか?」

 と、タルヴォンは顔色一つ変えずに言って、屋敷の中へ入って行ってしまった。

「嘘でしょ……」

 あまりにもなびかないのでびっくりした。同時にすごくムカついて、絶対に落としてやろうと思った。わたしは負けず嫌いなのだ。


 十回会いに行っても、タルヴォンはいつも通りだった。何も変わらない。

 二十回会いに行ったら、少しはわたしの方を見るようになった。でも落ちない。

 三十回会いに行ったところでしびれを切らし、わたしはつい彼へ言ってしまった。

「あなたはちっともわたしになびかない! どうしてなの!? こんな美少女が迫ってるのに!」

 タルヴォンはやっぱり困ったように笑うばかりで、「私は仕事一筋ですから」とだけ返すのだ。ひょっとして同性愛者なのではないか、と思ったこともあるけれど、なんとなく違う気もする。

 その後もあきらめず、五十回会いに行った時だった。

「ねぇ、ほら。ちょっとでいいから、わたしに触ってみない?」

 廊下で壁際に彼を追い詰め、豊満な胸を押しつけていた。彼は心なしか顔を赤くしており、やっぱり男なんだと確信した。男は女の胸に弱い。このままもう少し押せば――と、思ったところで後ろからおじさまの声がした。

「何をしているんだ?」

 はっとして振り返り、わたしはすぐに可愛い声で「おじさま!」と、明るい笑みを返す。

「おかえりなさいませ、旦那様。お出迎えが出来ず、申し訳ございませんでした」

 と、タルヴォンが頭を下げ、おじさまは呆れた顔でため息をつく。

「ニャンシャにしつこくされている、という話は本当だったんだな」

 ごまかせないと分かっていたけれど、わたしはつい癖で上目遣いをした。

「だってぇ、ルーヴォのことが好きなんですもの」

 おじさまが再びため息をつく。

「彼には毎日やることがたくさんあるんだ。仕事の邪魔をするのはよしなさい」

「な……」

 ショックだった。おじさまならわたしの肩を持ってくれると思ったのに、何で? どうしてそんなひどいことを言うの? 

「分かったなら、さっさと帰りなさい。ルーヴォ、居間で休みたいから紅茶を用意してくれ」

「かしこまりました」

 おじさまがわたしに目もくれず通り過ぎていき、タルヴォンも厨房へと歩いていく。

 その場に残されたわたしは、行き場のない怒りを覚えて唇を震わせた。――許せない。世界はわたしを中心に回っているはずなのに。

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