外で絵を描くようになってから一年が経つ頃、犬の散歩の途中で寄ってくれるタルヴォンが、ふと違和感を口にした。

「何だか、いつもと違う感じがしますね」

 毎日ではなかったけれど、彼とは数日に一度会うようになっていた。おじさまの屋敷へ行かなくなり、自然と会う頻度が減っていたから、外へ出てよかったことの一つだ。

 私は手を止めて正直に答える。

「絵の具がもうないから、使いたい色が使えなくて」

 タルヴォンは神妙な顔をして、少し遠慮がちに言う。

「これまでに描いた絵を、売りに出せばよろしいのでは?」

 思わずため息が出てしまった。すでにそれは考えたことがあったのだ。

「誰も買ってくれなかったわ」

「……こんなに素敵な絵なのに」

 前より使う色は明るくなったけれど、私は画家として中途半端で、売り物になるような絵を描けるような人物ではなかった。どうして私は生きているのか、常に不思議でならなかった。

 次に会った時、タルヴォンは銀貨を三枚差し出した。

「メロセリス様、これで絵の具を買ってください」

「え? でも……」

 戸惑う私へ、執事はいつかみたいにいたずらっぽく笑う。

「安心してください、私のお金です。何も気にせず受け取ってください」

 申し訳ないことをした気になって、私は「ごめんなさい」と、返す。

 タルヴォンは優しく首を振った。

「いいえ、謝ることはありません。私があなたにお金をあげたいんですから」

 あまりにも優しすぎて、私は彼のことが少し嫌になった。銀貨はクッキーとは違うのだ。


 それからタルヴォンは筆が壊れて使えなくなってしまった時、キャンバスが買えない時にも、こっそりと銀貨をくれた。一度だけ、金貨だったこともある。

 彼はいつの間にか、私の支援者(パトロン)になっていた。

 それでも絵は売れないから、彼のお金ばかりが減っていく。彼はいつも微笑んでくれて、私ばかりが胸を痛めていた。昔からそう、彼は真面目だけどずるい人だ。

 どうにかして彼の優しさに報いたい。自分の中にあるものばかりに目を向けていた私は、勇気を出して外側も見るようになった。

 私の描く絵は遅々ちちとした歩みながらも、日に日に小綺麗になっていった。


 一ヶ月前、私の絵を買いたいという人が現れた。

「僕はキシンス・マシュフィ。投資家だよ」

 緑色の髪が陽の光を反射して綺麗だった。タレ目で柔和な顔立ちが、彼を優しげな好青年に見せる。

「メロセリス・レインスウォード、です」

 私が名乗り返すと彼は目を丸くした。私を上から下まで、まじまじとながめてからキャンバスへと視線を向ける。

「まさか、男爵家のお嬢さんだったとは」

 そんな風に言われるのは初めてだ。ちょっと新鮮だったけど、次に何を言われるか怖くなった。みにくい、汚いと言われるに決まっているからだ。

 しかし彼は「それにしてもいい絵だ」と言い、私の格好を非難しなかった。

 彼の視線はキャンバスに向けられており、私はどうしたらいいか分からずに戸惑う。

「実は知り合いに画商がいてね、いろいろな絵を見てきたが……メロセリス嬢の絵は、繊細な色使いがとてもいい」

 具体的に褒められてますます戸惑う。どうやら彼は私ではなく、私の描いた絵に興味があるようだ。

「影の描き方も素晴らしいね。全体として見ると柔らかい印象なのに、じっくり見ていくと筆致の細やかさに目が奪われる。実に素晴らしい絵だよ」

「そ、そんなことない、です……」

 ドキドキして顔が熱くなってきた。こんなにいっぱい褒めてもらったのは、初めての経験だった。

 キシンスは「いいや、僕の目に狂いはない」と、言い切った。

「作品を画商に売ったことは?」

「い、いえ……誰も買ってくれなくて」

「まさか!?」

 大げさなくらいに驚いて、キシンスは私を見る。

「なんてことだ。貴女の絵はもっと世に知られるべきだ。よければ一枚、僕に預からせてはくれないかい?」

「え?」

「馴染みの画商へ見せれば、すぐに買い取ってくれるはずだ。預けるのが不安なら、この場で買い取ったっていい」

 と、ジャケットの内ポケットを探りだす。

「え? え?」

 混乱して頭がパニックになってきた。今にも買い取られてしまいそうになり、私は「ちょ、ちょっと待ってください!」と、できるだけ大きな声を出す。

 すると彼は冷静になったようだ。

「ああ、いや、一気にいろいろ言ってしまって申し訳なかった」

 と、取り出した財布をしまい、気を落ち着かせるようにため息をつく。

「でも僕は本気だよ。貴女の絵をどうにかして世に出したいと、本気で思っている」

 見上げた横顔はまっすぐで、これまでに出会ってきた人たちとは違うと感じた。キシンスは私の世界を広げてくれる、新たな扉に見えた。

「貴女はいつもここで絵を?」

「あ、はい。天気の悪い日以外は、だいたいここにいます」

「そうか、分かった。それじゃあ、また会いに来るよ。返事はその時に聞かせてもらうから、考えておいて」

「は、はい」

 にこりと微笑み去っていく彼を、私はドキドキしながら見送った。――絵が売れるかもしれない。

 こんなに嬉しいことはなかった。その日の晩はなかなか寝つけなかった。


 この街はあまり大きくない。あれから一週間もすると、キシンスの噂があちこちで聞かれるようになった。

「何やら最近、街がざわついていますね」

 今日も犬を連れたタルヴォンが言い、私は絵を描きながら返す。

「キシンスのこと、だよね。あっちこっちでビジネスの話をしてる、って」

「よそから人が来るのは珍しいですからね。それにしても、ずいぶんと行動力のある方のようで」

「そうなの?」

 手を止めて隣に立つ彼を見上げる。

「聞いたところによると、グリムハースト農園に新規事業をしないかと持ちかけたとか」

「アレイドのところにも……?」

「ええ。それと男爵家にも訪れたようですね」

「うん、聞いたわ」

 キシンスはリオお兄様を訪ねてきたが、残念なことに不在だった。偶然その場に居合わせたお父様は、すぐに彼を追い返したそうだ。まったく知らない若者を相手に話すことはない、ということらしい。

「おじさまのところにも来たの?」

 私の問いに執事はうなずいた。

「ええ、もちろん来ましたよ。旦那様は彼に興味を持ったご様子でした。ビジネスに関する嗅覚が働いたようで、友好的に接していましたよ」

「そうなんだ……」

 街の人たちが警戒心をあらわにする中、おじさまがそんな反応をしたのはちょっと意外だった。

「私個人としても、悪い方ではなさそうだと感じました」

「もしかして、キシンスと話をしたの?」

「はい、少しの間でしたがね」

 にこりと笑う彼はどこかいたずらっ子のようで、私もついつられて笑ってしまう。

「キシンス様は賢いお方です。考え方が前衛的なので、保守的な方々とは意見が合わないのでしょう。ですが、これからの時代はキシンス様のような方が担っていくのではないか、と思いました」

「これからの時代……」

 脳裏によぎったのは彼の言葉だ。

「あ、あのね、実は私、彼に絵を褒められたの」

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