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タルヴォンが意外そうに片眉を上げた。
「絵を、ですか?」
「うん。それでね、私の絵を広めたい、買い取らせてくれって、言われて……でも、もしかして、それも彼のビジネスだったのかしら?」
あの時は喜んでしまったが、あちこちでそういう話を持ちかけていたとなれば、事情が違ってくる。
タルヴォンは少し考える様子を見せてから、神妙にうなずいた。
「その可能性はあるでしょうね。メロセリス様の作品が商売になる、と踏んだのでしょう」
「そっか……」
絵が売れるのは嬉しい。これまでタルヴォンからもらったお金を返せるかもしれない。でも、キシンスの商売道具にされるのだとしたら、ちょっと嫌な気分だ。
「次に会った時、返事を聞かせてって言われてるの」
パレットに筆を置いてキャンバスを見る。あともう少しで完成するのに、気分が乗らなくなってしまった。
「難しい話ですね。きちんと彼と話をして、慎重に決めた方がいいかもしれません」
「……うん」
私はうなずいて、光にきらめく
キシンスと再会したのはその翌日、川辺りへ向かう途中の道だった。
「メロセリス嬢!」
と、さわやかに声をかけてきたのだ。
道具を抱えた私は立ち止まり、「あっ、こ、こんにちは」と、どぎまぎしてしまった。
彼は私の横へ並び、にこやかに問いかける。
「この前の話、考えてくれたかい?」
「え、えぇと……その、あなたは私の絵で、お金を儲けようとしているの?」
頑張って単刀直入にたずねる。キシンスは目を丸くし、苦笑した。
「いいや、お金なんてどうでもいいと思ってるよ。僕は純粋に、心から君の絵を世界に広めたいだけなんだ」
本当だろうか? タルヴォンと話したことを思い出しながら、私はたずねる。
「私なんかの描いた絵を、世界が認めてくれるの……?」
「そうだね、最初は難しいと思う。多くの人に知ってもらうには、段階を踏んでいかなければならない。その最初の一歩を、僕が後押しできたらと思うんだ」
彼はたぶん話が上手い。相手をその気にさせるのが上手だ。
安易に乗らないようにしようと思い、私は
「そうだ。君が画家として名を馳せるまで、僕がサポートするよ。だから、まずは一枚、売ってみないかい?」
彼がついてきながら言い、私は小さくうなる。つい信じて託しそうになる。
無言でいつもの場所へ着き、イーゼルを立ててキャンバスを置いた。絵の具と筆にパレットを用意し、椅子を置いて腰かける。
絵を見た彼が気づいたように言った。
「ああ、前よりも描きこみが増したね。もうすぐ完成かな?」
「ええ、今日で終わるかと」
「そうか。じゃあ、邪魔したら悪いね」
と、意外にも退散する様子を見せたが、背中を向けることはなかった。地面へトランクを置いたかと思えば、さっとしゃがみこむ。コートの内ポケットから手帳と鉛筆を取り出し、その場で何か書きつけた。
「これ、僕の知り合いがやってる画商の住所。気が向いたら、ぜひ作品を持っていってほしい」
手渡されたメモを私は呆然と見つめる。
「あなたを介さなくてもいいってこと?」
「ああ、君が一歩を踏み出してくれるなら、僕はそれでいいから」
彼が立ち上がり、再びトランクを持つ。
「それじゃあ、また」
今度こそ背中を向けた彼を、たまらず呼び止めた。
「キシンスさん!」
はっとして彼が振り返り、私はメモを握ったまま問いかける。
「あ、あの……どうして、私なの? 私の絵、そんなにいいと思えないのに」
少し困ったように笑ってから、彼は照れまじりに言った。
「一目惚れなんだ」
「え?」
その意味を語ることなく去っていき、残された私はどうしようもなく動揺する。
手にしたメモを見下ろすと、胸のどこかがずくんと痛んだ。――彼は信じても心配ない人かもしれない。きっと、私を傷つけない。
三度目に会ったのは、それから五日後のことだった。
「しばらくこっちで過ごせるよう、スケジュールを調整してるんだ」
と、彼は笑いながら言った。
「その時には、貴女の他の作品を見せてほしい」
「……」
臆病な私はうつむき、考えこんでしまう。この前完成した絵は部屋に置いてある。過去に描いた絵も全部、私の部屋に積んであった。
するとキシンスは何か察したのか、自嘲するような口調で話し始めた。
「実は僕、ついこの前までは金がすべてだと思ってたんだ。金さえあれば幸福だって、本気で信じてた」
私は止まっていた手を下ろし、筆をパレットの上へ置いた。
「それが最近……いや、貴女と出逢ってからだ。本当の幸福は、もっと違う形をしているんじゃないかと思い始めた」
心臓がドクンと高鳴る。
「何ていうか、その……」
彼がすぐ横で地面に片膝をつき、私をまっすぐに見上げた。
「メロセリス嬢、貴女のそばにいたい。貴女との未来が欲しい。僕が一目惚れしたのは、貴女なんだ」
顔を真っ赤にして告げた彼を見て、私も頬が熱くなってしまった。こんなに熱烈な告白を受けたのは初めてだ。当然ながら、一目惚れをされたのも初めてのことだった。
「で、でも、私は……」
顔をそらして膝の上に置いた両手をぎゅっと握る。
「未来なんて、考えられない」
言葉にすると申し訳なくて涙が出てきた。しかし、そんな私を見て彼は言う。
「僕は貴女といられるだけでいいんだ。もちろん無理にとは言わない。でも、貴女のためなら何でもするつもりだ」
「そんなこと、言われても……」
彼の真剣さが見ていられなくて、私はじっと川面を見つめた。こんな時、どう言えばいいのか分からなかった。
気づいた様子の彼は少し自嘲するように言った。
「急だったね、すまない。でも僕が本気だということは、どうか分かっていて欲しい」
誰かに好意を抱かれるのはどうにも慣れない。妹ならもっとうまくやれたのだろうが、私は圧倒的に経験が足りなかった。
「……また会いに来る。どうか考えておいて」
と、彼が優しい声を残して去っていく。――ああ、ごめんなさいと言えばよかったんだ。
気づいた時には、もう近くに彼はいなかった。
「今日はこちらをお渡しにまいりました」
数日後、いつもの川辺りでタルヴォンが私に差し出したのは、一通の招待状だった。
「これは?」
「懇親会です。旦那様はキシンス様をいたく気に入っていまして、他の方々には彼と親しくなってほしいようです」
私はよく分からなくて首をかしげる。
「どういうこと?」
彼はにこりと微笑んだ。
「チャンスですよ」
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