三話:八

「度生司にいた――道医?」

 洞穴の暗がりの中、安玖アンジウ暮白ムーバイの言葉をそのまま繰り返し、一拍遅れて思い出した。会ったばかりの時、そんな話を聞いたはずだ。

「それって、いなくなったっていう?」


 暮白は無言で牢房に倒れた男を見つめ、ゆっくりと頷いた。

「二年前に度生司から逃げ出して……死んだと思っていた」

 手首の呪詛はどうしたのだろうと思い、さっきの錯乱した様子を思い出す。

「じゃあ、吐血していたのは呪詛のせいか」

 安玖が呟くと、暮白はかぶりを振った。

「普通は二年間も無事では済まない。出血が止まらなければ死ぬ。違いますか」

「それは……まあ、確かに」

「なぜこの男がまだ無事なのか、調べないと」

 度生司の呪詛にも抜け道があるのだろうか。安玖は自分の手首を眺めて問う。

「禁術を使って呪詛から逃げたとか? 陳易チェンイーは何をやって投獄されたんですか?」

「分かりません。彼は度生司が作られた当初からいて、煉丹術に詳しかった。あと……よく呪具を作っていたと思う」

 暮白はどこか自信なさげに首をひねる。安玖は混乱した頭を整理しようと口を開いた。


「つまり、どうやってか分からないけど二年前に逃げた陳易は、円修門に潜り込んでここにずっと囚われていた?――この人、自分が本物の円修祖師だとか言ってましたが」

「もしかしたら、円修門の丹薬というのは陳易の禁術の知識を使って作られたのかもしれない。彼は度生司から匿われる代わりに、知識を提供した。二年前なら円修門が丹薬を売り出した時期と合います」

「匿われる――にしては、扱いが杜撰というか悲惨ですね」

 こんな檻の中にいるくらいなら度生司の方がましだ。そうまでして逃げたかったのだろうか。

 しかし、陳易が譫言のように言っていた言葉が気に掛かる。


 ――お前、あいつと、同じなのか。


 錯乱していただけかもしれないが、陳易の言葉と暮白の推察はどこか辻褄が合わない気がした。その違和感の正体を深く考える前に、ふと、洞穴の外から微かに聞こえていた鐘の音が弱まっていることに気づく。

「……これは、我々だけではどうにもならない。王靖殿に頼んで兵を用意してもらわないと」

 未練を断ち切るように倒れた男から目を逸らし、暮白は安玖を見た。

リー道長と合流しましょう」




 洞穴から抜け出した二人は、文雨と合流するために正殿の周囲を探した。先より狂騒は鎮まっているが、今度は地面に倒れている人が多い。気絶した参拝客から浄身布を拝借しながら、安玖は半ば呆れて言った。

「これって禁術を使ったことにはならないんですか?」

「李道長は……わざとではないので」

「なんか狡いなあ」

 呟きながら、あちこちの鐘楼で必死に鐘を止めようとしている円修門の門弟を見上げる。


「――本物か偽物か知らないけど、円修祖師は一体どこにいるんでしょうね。もうどこかに逃げたかな」

「どこにいようが逃がさない」

 暮白が剣呑にそう言ったので、安玖は軽く目を瞠った。

「なんかすごく……やる気がありますね?」

「禁術を利用しているなら重罪人です。当然捕らえる」

「それはそうだけど」

 安玖は重ねて問おうとしたが、寸前でやめた。

 大した付き合いではないが、暮白が禁術を使うことにひどく罪の意識を抱えているのは分かる。それでも彼が禁術を犯してしまったのはなぜだろうと、ふと気になったのだ。

 だが、それを訊くのは踏み込み過ぎだと自制した。他人に興味を持ったところで、どうせろくなことにならない。人に弱みを見せるのも見せられるのも、どちらも同じくらい嫌だった。



 混乱の中を二人で探し回り、いい加減文雨を見捨てて帰りたくなってきたところで、建物の壁に張りつくようにコソコソ歩いている小柄な男の姿を見つけた。

「ああ、やっと見つけた。李道長――」

 文雨が誰か背負っていることに気づき、安玖は顔を引き攣らせた。

「……それ、誰ですか?」

 こちらに気づいた文雨は、半分泣きそうな顔で手招く。

大夫だいふ、こ、この人、どうしよう、なんか、死にそうかも」

 彼が背負っていたのは女だった。その顔を覗き込み、あまりに見覚えのある顔立ちに眩暈を覚える。

「……荷華仙女だ……」

「は?」


 遅れてやって来た暮白も女の顔を見て、わずかに目を見開いた。文雨は縋るように安玖の袖を掴む。

「し、知ってる人なの? なんかさ、建物に閉じ込められてて、様子が変で、なんかまずそうだと思って――持ってきたんだけど」

「そんな、物みたいに……」

 呆気に取られて言葉を失う。文雨は目を泳がせ、懐から何か取り出した。

「これ、これのせいだと思う。なんか嫌な感じするし、呪具じゃない? 僕はよく知らないけど、楊道長が持ってた気がするし」

 彼が取り出したのは赤い蝋燭だった。――蜃の蝋燭だ。


 荷華仙女がここにいたということは、やはり円修門と何か関係があるのだろう。彼女は自ら蜃の幻に囚われたのだろうか。それとも、誰かに幻を見るよう強制されたのだろうか。――円修門と荷華仙女は仲間ではなかったのか。

 そう思ったところで、使い捨てか、と嫌な考えが浮かんだ。

 荷華仙女は度生司に追われて円修門に逃げ込んだ。だが円修門の方は彼女を切り捨て、蜃の蝋燭を使って廃人にしようとした。憶測でしかないが、矛盾はしない。



 溶けかけの蝋燭を茫然と見つめていた暮白は、ふと何かに気づいたように目を瞠った。彼の驚愕は一瞬で薄れたが、安玖はそれに気づいて視線を向ける。

 暮白は安玖を一瞥したが、すぐに顔を背けて文雨に言った。


「……李道長、その女と蝋燭を持って度生司まで戻ってほしい。きっと楊道長なら女を目覚めさせられる」

 唐突な話をすぐには呑み込めないのか、文雨は曖昧に頷いた。

「あ……え、僕もう戻っていいの? なら戻るけど」

「それと、王靖殿に兵を出すように伝えてくれ。さっき盗った丹薬とこの女が、きっと証拠になる」

「証拠って――何の?」

 普段冷え切った目をしている暮白は、この時だけははっきり激情を湛えていた。怒りか憎悪か、剣を握る手が微かに震えている。

「円修門が禁術を使っている証拠だ」


 文雨は血の気の引いた顔でかぶりを振った。

「えっ、ほんとに禁術? どういうこと? あの洞穴の中で何見たんだよ?」

「あの中に陳易がいた」

 暮白は無造作に告げた。

「李道長も一度会っただろう。二年前にいた道医だ」

「ああ、あのちょっと怖い……生きてたの?」

「顔を見たが、確かに陳易だった。円修門で彼の煉丹術の知識が利用されている可能性がある。王靖殿にそう説明してほしい」

「あんまよく分からないけど……でもなんで僕? 沈道長が説明した方が早くない?」

 暮白は手の中の剣を見下ろす。

「――禁術を犯した者は、捕らえるか殺すしかない」


 無言で話を聞いていた安玖は、ようやく口を挟んだ。

「まさか、さっきの洞穴まで陳易を殺しに戻る気ですか?」

「違う」

 あっさり否定し、彼は整然と説明した。

「荷華仙女と蜃の蝋燭が揃えば、円修門が仙女と関わりがあるのは明白だ。これだけ証拠があれば王靖殿も兵を動かすことができる。私が説明しに戻る必要は無い。――なら、私はここに残って円修祖師を捕えに行く」

 無茶だろうと思ったが、暮白は引く気が無さそうだった。

「兵が到着するまでに遠くに逃げられるのはできるだけ避けたい。これが最善だ」


 暮白は殺意の凝った目で逃げまどう円修門の門弟たちを睨んでいる。明らかに様子がおかしいが、理由を答えてくれそうな雰囲気ではない。

 文雨は何も気づかないのか、ただ面倒そうに頷いた。

「わざわざ大変な目に遭いに行くのは別に止めないけど……死なないように頑張ってね」


 暮白を止めた方が良いと思いつつ、結局説得の言葉が思いつかなかった。代わりに安玖は溜息まじりに問う。

「じゃあ俺はどうすれば?」

 暮白は視線もくれずに答えた。

「好きにしてください。李道長と戻ってもいいし、私と残ってもいい」

 どうします、と投げやりに問われ、途方に暮れて天を仰いだ。

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