二話:八

 やはり起きていたようで、暮白ムーバイの押し殺した声が背後から聞こえた。

「なぜこんな場所でわざわざ喧嘩を売るんですか?」

「いや、ちょっと腕が疲れて――そろそろ降りてもらえますか?」

「……」

 暮白は不機嫌そうに自分で立ち、楊汐ヤンシーから剣を受け取って繋がった紐を斬った。


 荷華かか仙女せんにょは初めて驚愕したように目を見開いた。

「あなたも目が覚めていたのね。相当深く夢を見たはずなのに……」

 暮白はその言葉を無視し、官印を見せて言った。

「あなたにはいくつか聞きたいことがある。度生司に来てもらおう」

 淡々と告げ、冷えた目で仙女を見る。彼女は動揺を一瞬で消し、微笑を浮かべて首を傾げた。

シェン暮白ムーバイ、あなたは度生司から抜けたいと思わないの? あたしの言ったこと、間違っていないでしょう。あなたは罪も無い娘を助けるために、」

「黙れ」

 いっそ清々しいほど何の感情も籠っていない声だった。隣で笑いそうになった安玖アンジウは慌てて真顔を保つ。

「目的と手段を一緒にするな。どんな理由があろうと、禁術は間違った手段でしかない」

 どれだけ正しい目的があろうと、手段を間違えていればそれは罪になる。暮白はそう言い切って、躊躇いなく剣を構えた。



「……頭の固い人ね」

 荷華仙女が唖然としたように呟いて、安玖は耐え切れずに失笑した。

「確かに、沈道長は真面目すぎる。俺は多少間違えても良いと思うけど」

 暮白は険しい目で安玖を睨んだ。

大夫だいふ、あまりふざけたことを言わないでください」

大夫いしゃ……?」

 仙女はわずかに気掛かりそうな顔をしたが、すぐに表情を取り繕った。

「残念だけど、あなたたちが愚かなのは分かったわ。でも楊汐ヤンシー、あなたの考えはどうなの? 度生司に死ぬまで囚われるなんて、馬鹿みたいだと思わない?」

 あなたは何も悪いことをやっていないのに、と蜜を含んだ声が囁いた。


 顔を伏せていた楊汐は黙ったまま答えない。切り揃えられた髪が滑り、その横顔を覆い隠してしまっている。反応の無い楊汐に、ふと嫌な予感を覚えた。

「……楊道長?」

 まさか本気で裏切ろうと思っているのだろうか。安玖がその顔を覗き込もうとした時、不意に彼女は顔を上げた。

「――私としては、まあ、外には出たいけど」

 その顔を見て、暮白以外の全員が息を呑んだ。


 目鼻からゆっくりと血が線を引いて流れている。蝋のような肌を滑って顎から滴り落ちる。それを隠そうともせず、楊汐は赤く染まった歯を見せて笑う。

「でも私だって、矜持くらいはあるのよ」

 血の芳香が広がってゆく。えずくように血を吐き出し、彼女は足元に広がる血だまりを見て笑った。

王靖ワンジン殿には……恩を返さないといけないもの」



大夫だいふ、護身呪を」

 茫然とする安玖のかたわらで暮白が囁いた。

「彼女の血は毒だ。匂いで酔う」

 酒匂にも似た血の香りはゆっくりと頭の芯を蝕む。ぐらりと酩酊したような心地になり、慌てて護身呪を唱えた。

 荷華仙女も仙女の護衛も、血の匂いにてられたように苦しんでいる。暮白は剣を突き付けていた護衛の一人に当て身を食らわし、剣を奪った。

 中心に立つ楊汐は、平然と袖で顔の血を拭った。


「――さあ、逃げましょうか」

 振り返った彼女は黒々とした目を細めて苦笑する。

「そんなに時間は稼げません。本当はやりたくなかったけれど、仕方ないわ」

「楊道長、助かりました」

 酔っ払ったような足取りで向かってくる護衛を斬り伏せ、暮白は言った。

「本当は、仙女の術の正体くらいは知りたかったが――」

 彼は迷うように荷華仙女に視線を遣る。仙女は護衛に庇われ、部屋のさらに奥へと逃げようとしていた。深追いは危険だが、このままでは収穫が無い。

 やっと我に返った安玖は、「それは大丈夫」と口を挟んだ。


「術の正体なら、たぶん分かりました」



 ***



 限界を迎えたのか貧血で倒れた楊汐を抱え、血に酔った護衛をどうにか切り抜け、三人は荷華仙女の屋敷から脱出した。

 ようやく度生司の道観に帰り着いたのが夜更け、騒ぎを聞きつけて迎え入れてくれたのは王靖ワンジンだった。


 彼は徹夜で何か仕事をしていたのか、目下に隈を作って安玖たちを眺めた。

「……一体何が……いや、今は聞きたくない」

 明らかに疲弊している暮白と血まみれで気絶している楊汐、彼女を抱えている安玖を見て、王靖は深く溜息をついた。

「まず楊汐の手当てをしてやれ……」

 力なくそう言って、王靖は正殿に戻っていった。



 安玖は楊汐の居室へ勝手に入り、寝台に横たえる。入り口で立ち往生している暮白を振り返って桶を押しつけた。

「湯を沸かして持ってきてください。あと手拭いも」

 大人しく従い、しばらくして戻ってきた暮白から湯を張った桶を受け取って血のこびりついた顔を拭う。淀んだ湯を何度も交換し、そうするうちにわずかに空が白んできた。


「さっき、楊道長の血が毒だとか言っていましたが、どういうことですか?」

 視線の遣り場に困ったのか、暮白は壁際で床を眺めていた。彼は安玖の問いに顔を上げ、貧血で気絶したままの楊汐を見て小さく頷く。

「毒というか、彼女は……」

 徐々に顔色を悪くする暮白の様子に、何か嫌なことを聞かされる予感がした。


「……私はこの身体自体が呪詛のろいなんです」


 唐突に声がした。手拭いの下、ようやく目を開けた楊汐は、蒼白な顔で微笑んでいる。

「髪も血も肉も、それ自体が呪具になる。面白いでしょう? 蠱毒で作られた蟲みたいなものです」

 蠱毒――虫を大量に壺に封じて殺し合わせ、生き残ったものが呪詛の道具となる。

「……それは」

 一体どうしてそうなったのか、訊こうと思って口を閉じた。――人間同士で蠱毒術ができるかは分からないが、やろうと思えば可能だろう。楊汐はそうして作り上げられた呪具なのだろうか。だが、他人の凄惨な半生など聞きたくない。

 そう思ったのに、楊汐はあっさりその先の疑問に答えた。

「実は私、色んなもので蠱毒をやって、生き残ったものを食べてみたんです」


「……は?」

 一瞬理解できず、よく考えてみてもやはり理解できなかった。

「虫はすごく不味いです。でも猫鬼を食べた時が一番大変でしたね。あやうく死にそうになった。でもおかげで、私の血肉自体に呪詛の力が宿るように……」

 楊汐は安玖の様子に気を留めず、目を伏せる。――照れ笑いのように見えた。

「さすがに、投獄されてからはそんなことできません。禁術だと判断されてしまったし……おかげで私の身体の呪詛も弱くなっちゃって、さっきは勿体ないことをしました。もうあまり何度も血は使えないのに」

「そう、ですか……」


大夫だいふ、そんな顔をしないでいい。楊道長はこういう人です」

 暮白が珍しく気を遣うように声を掛けてきた。

「楊道長に罪の意識とかそういうものは無いし、気にするだけ無駄です」

「ひどいことを言いますね。私は度生司を裏切らなかったんですよ」

「裏切ったら私があなたを斬っていました。……あなたなら七星剣で斬れると思うし」

 うんざりしたように言って、暮白は目を逸らす。楊汐は肩をすくめた。

「私もそう思います。――それで、結局あの仙女の術って何だったんですか?」

 理解を諦めて血に汚れた手拭いを絞っていた安玖は、二人から注目されて目を瞬いた。

「……ああ、これです」

 言って、逃げる際のどさくさに紛れてくすねた赤い蝋燭を懐から出す。暮白と楊汐は戸惑ったように顔を見合わせた。


「それは仙女の持っていた蝋燭では?」

「ええ。あの仙女は、方術で夢を見せていたわけではなかったんです」

「方術ではない……?」

「この蝋燭の炎が幻を見せました。――これは、しんの脂で作った蝋燭です」

 ああ、と暮白は軽く目を瞠った。


 蜃――蛇に似て身体は大きく、龍のように角を持つ妖魔の一種だ。吐く息の中に楼台城郭の幻を見せる異形であり、その脂で作った蝋燭の炎の中にも幻が浮かぶのだという。


「蝋燭の煙が少し生臭くて、それが潮の臭いに似ていたんです。だからそうかもしれないと思って……てっきり、炎を見るなと言っていたから沈道長も気づいているのかと」

「私はただ、炎の中に何か見えたからそう言っただけです。しかし、あの夢は仙女の力ではなかったのか……」

「おそらく。――混ぜ込む脂が多いほど夢は深くなって、抜け出た魂は夢に囚われて帰ってこなくなる。この蝋燭の詳しい成分は分かりませんが、荷華仙女自体に不思議な力があるわけではないと思います」

 荷華仙女はこの道具を使ってはったりを利かせるのが上手いだけの詐欺師だ。むしろ調べるべきなのは――


「この蝋燭を作った人物が一体誰なのか……」

 暮白の独り言に、安玖は頷いた。

「護身呪すら唱えられず楊道長の血に酔った仙女にこれが作れたとは思えません」

 だから、荷華仙女の裏には方士がいる可能性がある。荷華仙女の客が失踪する原因にも関わっているかもしれないと言うと、暮白は険しく眉をひそめた。



 説明を聞いていた楊汐は、ふと首を傾げた。

「ちょっと拝借します」

 楊汐は受け取った蝋燭を弄び、匂いを嗅ぎ、挙句の果てに蝋を齧った。

「楊道長!?」

 慌てて吐き出させようとする前に、彼女はすでに飲み込んでいた。

「――大丈夫です、変なものは食べ慣れてますもの。毒を以って毒を制す、というんでしたっけ?」

「たぶん違いますが……何か分かるんですか?」

「これ、何か呪詛みたいなものが色々混じっているみたいです。私が調べても良いですか?」

 楊汐は赤い蝋燭の表面を撫でる。彼女の瞳に戸惑い混じりの色が浮かんだ。

「――なんだか、一度見たことがあるような気がするんです」

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