二話:四
気づいた時、
その家を見た途端、茫然とする。おそらくこれは、荷華仙女の見せる夢のはずだ。絶対に現実ではない。
分かっているはずなのに、心臓が大きく脈打っている。頭の芯が鈍く痛む。
――これが、俺の望むものなのか?
望んでいるものを見せてあげる、と言われた時、安玖が想像したのは投獄されていない自分だ。投獄前はそこそこ楽しく暮らしていたし、金も持っていた。名医としておだてられ、それに胡坐を掻いて呑気にしていられた。
そういう夢を見るかと思っていたのに、この景色は――もっと昔に見たものだ。
粗末な家の門戸は無防備に開かれていた。操られるようにふらふらと一歩踏み出し、途端に制御が効かなくなる。家の入り口に駆け寄ると、開け放された扉の向こうには老いた女が一人、板間に座って慣れた手つきで籠を編んでいた。
彼女はふと顔を上げた。茫然と入り口で立ち尽くしている安玖を見て、柔らかに目元を和ませる。
「
記憶の中の彼女よりもずっと年老いていた。――生きていればきっと今頃、こんな見た目だっただろうと思う。
何も言えずにただ食い入るように彼女を見る。相手は戸惑ったように作りかけの籠を置き、ふとその視線が安玖の背後に移った。
「邪魔だろ。入り口で止まるなよ」
背後から腕が伸びて安玖を押しのけ、そのまま家に入る。腕の主――行李を背負った男は安玖を一瞥し、顔をしかめた。
「なんだ、その顔」
「……
「は? 他に何だと思ってる」
いや、と安玖は呟き、そのまま言葉を失った。男――五兄は行李を置いて買い込んだ食糧を年老いた女に見せている。
「母さんに頼まれてたやつだ。これで足りるか?」
「阿五、ありがとう。阿九もこっちへ座りなさい」
どうすればいいのか分からず、促されるまま板間の端に座った。まだ茫然としている安玖を少し心配そうに見つめ、女は微笑む。
「阿九がくれた薬のおかげで、今日はずいぶん調子が良いの。少し歩けるようにもなったし、全部あなたのおかげよ」
「母さん、あまりそいつを甘やかすな。街では名医だなんだの言われても、遊び回って全然金を貯めようとしない」
五兄は眉をひそめてそう言う。
「……稼いだ金をどう使おうが勝手だろ」
ようやく返せたのは子どもじみた反論だけで、もっと他に言いたいことがあったはずなのにと歯痒く思う。
「五兄だって、軍なんかに入って……」
「は?」
男は不思議そうな顔をした。
「俺は軍に入ってない。何言ってるんだ」
そう言われてようやく、この状況を飲み込んだ。
――確かにこれは自分の理想だ。
養母の病を自分の手で治すことができて、五番目の兄は戦場で重傷を負うこともない。安玖は単なる街の医者として生きている。
これは投獄されていない自分ではなく、そもそも、禁術に手を出さずに済んだ自分だった。
愕然とした安玖を怪訝に見て、「今日、なんかおかしいぞ」と五兄は気味悪そうに顔をしかめた。
「……なあ、五兄、他は? 姉さんとか、どこへ行ったんだ?」
「はあ? 嫁いだやつがそう簡単に帰ってくるか」
素っ気ない答えに口を噤んだ。――養母はたくさん孤児を引き取って育てていた。血の繋がらない兄弟は成人すると家を出る者が多く、時々養母に仕送りする以外は没交渉だ。安玖も、よく面倒を見てくれた五兄以外はあまり記憶が無い。
それでも養母の葬儀にはほとんどが参加していたと思う。あの時、安玖はまだ十二歳だった。病に罹った彼女を治す方法など、何一つ知らなかった。
葬儀の後、行き場を失った安玖は道観に引き取られ、五兄は軍に入った。修行の厳しさに音を上げて道観から出奔し、街で巫者として日銭を稼いでいた頃、五兄が軍で大怪我を負ったらしいと噂で聞いた。それで――。
「おい、今日の薬湯は?」
五兄の声で我に返った。肩を小突かれ、はっとして目を瞬く。
「ああ……うん、今から、作る……」
「のろのろするな。鈍くさい」
五兄はぶつぶつ言いながら養母を支えて臥室に連れて行く。その姿はどうしても幻のようには見えなかった。
――さっさと目を覚まさないと。
そう思いながら立ち上がる。こんな夢幻にいつまでも構っていられない。どういう詐術か、あるいは方術かは分からないが、このまま夢に囚われ続けるのは良くないような気がした。
それでも、どうしてもこの先をもう少しだけ見てみたいと思う。この夢がどうなっていくのか知りたい。
現実に戻れば、彼らには絶対に会うことはできないのだ。
部屋の隅に干された薬草を手に取る。自分がここで何をすればいいのか、習慣のように身体に染みついていてよく分かる。母の薬湯を作り、街の病人の面倒を見て、平穏に一日が終わる。それだけだ。贅沢は無い代わりに、安玖は何の罪も犯さず、何も失わずに過ごしている。
夢から醒めたくないという気持ちが、少しだけ理解できる。
「――くだらない」
低く、吐き捨てる声がした。
弾かれたように家の入り口に視線を遣る。そこにいつの間にか、白髪の男が立っていた。
暗く淀んだ眼差しが安玖を捕らえた。老人のような白髪が蜘蛛の糸に似ている。手には血に染まった剣、その剣身にある七星文――あんな見た目の知り合いは一人しかいない。
「
なぜ
彼は無造作に血に濡れた剣の切っ先を安玖に突きつけた。
「
冷えた声がそう言い放った。
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