二話:三

 荷華かか仙女せんにょがいるのは、瓦市の一角に大きな門を構えた立派な屋敷だった。


「思った以上に儲かってるな……」

 遠目に屋敷を確認し、負けたような気分で呟くと、隣の楊汐ヤンシーが睨んできた。

「大夫……いえ、安郎アンラン、あなたはそういうことを言いません」

 郎は恋人に対する呼び方だ。安郎と呼ばれてぞっとしたが、それを表情には出さなかった。

「えっと、俺は……美しいものが好きで詩歌の才能ある屑野郎みたいに振る舞うんでしたっけ?」

「屑野郎は余計ですが、そんな感じでお願いします」

 二人がこそこそ喋る背後で、暮白ムーバイは無表情のまま突っ立っている。彼だけいつも通りでも構わないのは少々ずるい。

「私のことは阿汐アーシーで構いません。親しげな雰囲気が大事ですよ」

 呪殺すると言ってくるような女と親しげにしたくはなかったが、おそらくこれが荷華仙女に一番穏当に近づける方法なのは分かっていたので、無言で頷いた。それに嘘をつくのは慣れている。偽物の丹薬を金持ち相手に売り捌いた経験が役に立つ時だろう。――まさか度生司で役に立つとは思わなかったが。


「屋敷に入った後、どうするか具体的に決めましょう」

 黙っていた暮白が口を開いた。彼は七星剣の包みを抱えて屋敷を見つめる。

「今回の行動で何を目的に据えるのかで、我々の動きは変わる。楊道長、それは考えてありますよね」

 淡々とした言葉で我に返ったのか、楊汐は慌てたように頷いた。

「ええ。まず、荷華仙女のという妙な術についてです。できればそれの正体を知りたい。魂を抜かれたようになって失踪する原因にも繋がっているかもしれませんから」

「浄土を……って、ずいぶん曖昧ですね」

「正確には、その人にとって最も幸福に思える理想を見抜き、その夢を見せてくれるそうです。彼女の言う通りにすればその理想に近づけるという」

「それで色々と貢がせるんですよね? 詐欺師の常套手段だ」

「詐欺師が言うと説得力がある」

 暮白が微かに笑ってそう言った。楊汐は少し驚いたように、「冗談を言うんですね」と呟く。

 途端に表情を失くした暮白は、平坦な声で言った。


「それからどうします?」

「今日は一旦それだけで帰りましょう。彼女が失踪に関わっている確固たる証拠を見つけられれば良いのですが、たぶん一度では無理だと思います。どういう術を使うのか様子を見て、ついでに屋敷の構造を把握してください。あとは状況に応じます」

 最初はどうなることかと思ったが、今回は単なる客として行くわけだから危険なことは無いはずだ――と信じたい。

「では行きましょうか。そろそろ約束の刻限になります」

 そう言った楊汐は、やはりどこか楽しそうな顔をしていた。




 楊汐が名乗ると、屋敷にはあっさりと通された。屋敷は広く、いくつかの殿堂が脇部屋と回廊で繋がっており、離れたところに高楼の屋根も見える。――これは確かに、妓女とはいえない待遇だ。

 詳しく聞くと、荷華仙女はすでに客の一人に身請けされていたようで、今は彼の援助でこの屋敷に暮らしているのだという。屋敷には護衛らしい人相の悪い男たちがいて、剣を背負う暮白を不審そうにじろじろ見ていた。

「その兄ちゃんの剣、こっちで預かろう」

 そう言われた時は焦ったが、暮白は落ち着いて包みを解き、中の剣を見せた。

「見ての通り、飾りの剣だ。何も斬れない」

 彼は刃を自分の腕に押し当てて引く。確かに全く切れず、男たちは戸惑ったように顔を見合わせて引き下がった。

 七星剣は儀礼用であり、破邪の剣――だから人を斬ることはできない。考えてみれば当然のことだ。内心焦っていたのが伝わったのか、暮白はちらりと安玖に視線を遣り、軽く頷いてみせた。


 三人は屋敷の半ばにある客庁に通され、そこでしばらく待つように告げられる。客庁の内装も豪華で、荷華仙女の人気ぶりが窺えた。

「荷華仙女に相談に来る客たちは、ほとんど心酔しているようだとか」

 疲れたように肩を揉んで腰を下ろした楊汐は、小声でそう言った。

「客というより、信者といった方が良いかもしれませんね。――ああもう、なんでこんなに頭が重いの」

「そんなに頭を飾り立てるからですよ」

「でも、箱入りのお嬢様ってこんな感じでしょう?」

 確かにそう見えるが、一体彼女の年齢はいくつなのだろう。道服を着ている時は二十半ばに見えたが、今は十六、七にも見える。しかし六年前に度生司に入ったということは、暮白よりも長いのだ。

 相当早い年齢で投獄されたのか、あるいは――と色々考えていると、下女らしい少女が客庁に訪れ、用意が整ったことを知らせてきた。


 荷華仙女は屋敷の奥、園林に建てられた高楼の中にいるという。下女に先導されて中を上り、三階の奥の部屋に辿り着いた。

 仙女と対面するための部屋は思ったよりも狭かった。そのせいで焚かれた香の煙が充満し、視界が霞むほどだ。詐術のためかと思って警戒したが、特に怪しいものは見つからない。

 正面には衝立があった。衝立には蓮の花が咲き乱れる浄土の絵柄が彫られ、部屋中に揺蕩う紫煙と相まってひどく幻想的に見える。


「よく来てくれたわね」


 不意に、衝立の向こうから声がした。聞く者を安心させるような穏和な声だ。落ち着いている声音だからか、想像より年上のように聞こえた。

「あなたがワン家の娘さんね?」

 楊汐は荷華仙女と面会するために王靖ワンジンの伝手を当たったらしい。王靖の親戚に実際に大きな商家の一家がいて、彼女はそこの一人娘だと偽ったのだ。


 楊汐は涙ながらに例の設定を語った。安玖も怪しまれない程度に相槌を打ち、背後の暮白は無言で立ち尽くす。

「――もう私は、この人と一緒に死ぬしか道は無いと思って」

 話しながらさめざめと泣き出した楊汐の肩を抱き、安玖は若干引き攣った顔で言った。

「仙女様が導いてくださると聞きました。俺たちがどうすればいいのか、教えてください」

 楊汐の話を信じたのか否か、衝立の向こうはしばらく沈黙していた。それから柔らかな声が返ってくる。

「……そうね、死んじゃうのは良くないわ。死ねば来世で幸せになれると言うけど、現世でも幸せに暮らせた方がずっと良いものね」

 衣擦れの音が響く。どうやら仙女は立ち上がったらしい。

「あたしに任せて。あなたたちに良いを与えてあげる」

 ――胡散臭い。

 そう思ったが、安玖はただ戸惑ったように衝立を見つめた。

「夢、ですか」

「ええ。あなたたちの望んでいるものを見せてあげる。きっと夢から帰りたくなくなるはず。――でもね、夢は醒めてしまうものだわ」

 声音が少し沈む。

 徐々に、紫煙が濃くなってゆく。噎せかえるほど濃厚な香の匂いが立ち込める。

「それはとても、哀しいわね?」


 不意に、衝立の向こうから女が出てきた。


 結い上げた髪は豪奢に飾り立てられ、小柄な身体は光沢のある絹の衣装に包まれて薄絹を上から纏っている。ふわりと煙の中を翻った薄絹は、まさしく絵にある仙女のようだ。

 仙女に相応しく、その顔も美しかった。彼女は物憂げな瞳で三人を見つめる。――その手には、火のついた赤い蝋燭がある。


 その蝋燭に違和感を覚えた。微かに生臭さを感じたが、香の匂いに紛れてはっきりとは分からない。よく見ようとわずかに身を乗り出すと、背後から暮白が衣の背を軽く引いてきた。

「だめだ」

 囁く声は半分眠っているように呂律が怪しい。


 唐突に、隣で楊汐の身体が床に崩れた。驚いて差し伸べようとした腕に力が入らない。身体が痺れて上手く動かない。

 赤い蝋燭の揺らぐ炎が煙の向こうで大きくなる。


「炎を、見るな」

 耳元で囁かれたが、もう遅い。

 視界を喰い破るように、蝋燭の炎が広がった。

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