二話:五
当惑する
「
「……困ったな、本物の
笑う安玖を、相手は睨みつけてきた。
態度を見るに、この暮白はおそらく本物だろう。荷華仙女の見せる夢の一部かと思ったが、彼は安玖の理想には要らない。現実で何があったのかは分からないが、暮白はどうやら何らかの方法を使って夢に入り込んできたらしい。
「でも俺は夢から醒める方法を知らないんですよ。待っていれば自然に目覚めませんかね」
「そんな悠長にしていたら、あなたの魂が欠けてしまう。この夢に入り浸って帰りたくなくなって、あとはもう廃人になるだけだ」
たぶん、脅しではなく本当のことだ。夢を見ている間、魂は肉体から離れて浮遊している――そういう考え方がある。荷華仙女の元へ通った人物が魂を抜かれたようになったのは、夢に魂が囚われたからではないか。
分かっていたが、それでも良いかもしれないと不意に思う。
「廃人になっても、この中で生きられるなら別に良いかもしれない。度生司よりずっとましでしょう」
冗談のように軽く言った。暮白は険しい表情でかぶりを振る。
「抜け殻のようになって、自覚しないままゆっくり死んでいくだけです」
「苦しくないならそれでも良いな」
「――本気でそう言っているんですか?」
安玖は苦笑した。冗談なのか本気なのか、自分でもよく分からなくなっていた。
「どうせ目が覚めたって、掃き溜めみたいな場所に戻るだけです。死んだって変わらない」
むしろ、穏やかに死ねるのなら上出来ではないだろうか。
自分でも異様な思考だと分かっていたが、夢から醒めたくないという気持ちは増してゆく。それが術の効果なのか、単に自分の執着のせいなのか、分からない。
暮白は微かに驚いたように目を瞠り、そして剣を構えた。
「――あなたがそんな風に死ぬのは許さない」
暮白はほとんど憎悪といっていいような表情を浮かべた。それは、彼が「罪の報い」と言った時の安玖の態度とどこか似ていた。
「罪人のくせに穏やかに死ねると思っているのか? 馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てられた言葉に驚く。
「あの……口が悪くないですか?」
「あなたが馬鹿みたいなことを考えるからだ」
七星剣の刃から血が垂れる。そういえば――あれは一体、何の血だ。
「罪人は天界にも浄土にも行けない。ここはあなたに相応しくない」
暮白の目が剣呑に細まる。
「目覚める方法を知らないのなら、私が起こしてやる」
その宣言に嫌な予感を覚えた。
「……あの、
暮白は無言で家の中に入ろうとしてくる。それを慌てて押しとどめ、安玖は宥めるように笑う。
「なんか怖いですよ。てか、その剣仕舞いませんか?」
「あなたが起きないので仕方ないです」
「仕方ないって……だから、その剣で何をする気ですか?」
暮白はその質問には答えなかった。嫌な予感が急速に膨らむ。
「分かった、分かりました。起きるから、どうすれば良いのか教えてください」
「……
彼は仏頂面で告げた。
「叩いても殴っても目を覚まさなかった。だから、方法は一つしかありません」
「叩いて殴ったんですか? 俺を?」
「……」
暮白はまた黙して強引に安玖を押しのける。彼の方が背は低いが、膂力で圧倒的に負けていた。あっさり家の中に侵入を許してしまい、安玖は焦って追いすがる。
どうやら何かを探しているようで、彼はあちこち出鱈目に歩き回って部屋を覗いた。制止の言葉は意味が無いと察し、安玖は彼の腕を掴む。
「説明してください。黙ったままじゃ何も分からない」
暮白は安玖の手を振り払った。彼が踏み込んだ部屋は臥室で、そこには寝台に休む養母とそばに付き添う五兄がいた。
老女と男は、剣を手にやって来た暮白を見て怯えと不安を顔に浮かべる。安玖はどうにか場を収めようと思ったが、何を言えば場が収まるのか少しも分からなかった。
「――あんた誰だ? お前の知り合いか?」
五兄は警戒と困惑まじりに言って、養母を庇うように立ち上がる。安玖は暮白の前に割り込んで必死に笑みを取り繕った。
「大丈夫。ちょっと賭博で揉めた人だ」
「それは全然大丈夫じゃないだろ! お前、もう賭博はやめろ。弱いしイカサマするし――」
「まあまあ、反省してるから説教は後で」
言いながら、暮白の身体を部屋の外へ押し出そうとしたが、彼は一歩も譲らなかった。
「安
暮白は、どこか蒼白な顔で安玖を見た。彼は躊躇いながら口を開いたが、迷いを捨てるようにかぶりを振る。
「……理解しろとは言わないが、諦めてください」
一体何を、と訊いても答えは無かった。掠れた声は届かなかったのかもしれない。
彼は軽々と安玖を押しのけ、七星剣を構える。事態の異常に気付いたのか、五兄は引き攣った声を上げた。
「何なんだ、あんた――」
七星剣は普通の人間なら斬れない。だが、幻ならどうだろう。
そんな考えが浮かんで、安玖は息を呑んだ。
「沈道長!」
暮白は剣を振りかぶった。茫然としている五兄の顔が見えた。夢の中の人間は危機感が無いのか、それともただ戸惑っているだけなのか。養母は寝台から半分身を起こしたまま固まっている。
焦燥に駆られ、咄嗟に懐から法鞭を出した。それで暮白の腕を絡め取る。強く引っ張ると、不意を衝かれたのか暮白は後ろに倒れ込んできた。
「やめてくれ、そんなことをする必要無いだろ!」
なりふり構っていられなかった。怒鳴りつけて腕を拘束する。剣を取り落とした暮白は、身をねじって振り向き、強く睨んできた。
「必要ならある。あの人たちがあなたの執着だ」
彼は躊躇なく安玖の顎を殴った。途端に視界が揺れて立っていられなくなる。暮白は鞭を解いて剣を拾い上げた。
「五兄、――にげろ」
声が震えて、言葉になったか分からなかった。頭の芯から揺すぶられているように気持ち悪く、目の前すらよく見えない。狼狽した声が上がったが、何を言っているのか聞き取れない。
逃げてくれ、と思う。いくら夢でも幻でも、彼らが傷つくところだけは見たくない。
額を押さえ、どうにか身を起こそうとした。それすら無理で、前に這って進む。狼狽した声が悲鳴に変わる。声が入り乱れて頭の中で反響している。
「やめてくれ……」
床を掻いた指先に何か生温いものが触れた。鉄臭さが鼻腔を満たす。その正体を知りたくなくて、目を閉じた。
気づけば、周囲は恐ろしいほど静かになっていた。
目を開ける。どろりと床に赤黒い液体が広がっている。安玖の指先はそれに浸かっていた。眩暈が少しだけ治まって顔を上げると、ぽっかりと虚ろな双眸と目が合う。死体というより、抜け殻のようだった。
「……五兄」
さらに見上げると、暮白は老女の胸から剣を引き抜いたところだった。妙にどろりと溢れた血が、寝台を濡らす。
音も無く頽れた女の身体を無感動に見つめ、暮白は剣に絡んだ血を払う。
「――あなたがこの夢に拘る理由は無くなりました」
淡々と告げられた言葉に耳を疑う。
「これで、目が覚めるはず」
彼は何の後悔も無いような表情をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます