三話:五
「あの人、一人にして大丈夫なの?」
安玖を置いて煉丹炉に向かう
「何した人なのか知らないけど、すごい胡散臭いんだけど。
「……任務から逃げることはできない」
「分かんないよ。大夫がもし呪詛の穴に気づいてたら」
手首の呪詛は完璧ではない。文雨が何度も逃亡を図るのも、わざと倒れて任務から逃げたいのが半分、もう半分は本当に逃げられるかもしれないと思っているからだ。逃亡はかなりの難事だが、不可能なことではない。
少し間が空いて、やや自信なさげに暮白は答えた。
「彼はまだ度生司に入ったばかりだし、あなたよりはちゃんと仕事をしている。心配ない――たぶん」
やはり暮白はあの新人には少し甘いのではないだろうか。文雨から見れば、あの安玖という道医は愛想が良い分、何を考えているのか分からなくて不気味だと思う。いくら普通に見えても、彼には度生司に入った理由があるはずだ。
「ねえ、あの人ってなんで度生司に入ったのか知ってる? 丹薬の詐欺だけでうちに来ないよね?」
「よく知らない。彼の行った治病の方術が禁術だとされたらしいが――」
言って、暮白は我に返ったように振り返って睨んできた。
白い布の下、陰になっている目元が暗い。いつでも暗く濁った目つきをしている男だと思う。
「――李道長、今はそんなことどうでもいい」
「どうでもいいかなあ。信用できるかって大事じゃない?」
「私は大夫もあなたも信用していない」
「ええ? 僕とは二年も顔合わせてるのに?」
「……たった二年で三十回も逃げようとする人は度生司でも初めて見た」
苦々しく言って、彼は前方を示す。
「あれが煉丹炉だ」
白い煙が陽の沈みかけた空に幾筋も溶けているのが見えた。地上では煉瓦で作られた壇の中で火が吹きあがり、その上に巨大な鼎が乗っている。そこから管が伸びて、地面に置かれた桶に似た形の金属器に繋がっていた。
蒸気に霞んで視界が悪いが、煉丹炉の周りには浄身布を被った参拝客の姿は無く、円修門の門弟たちが黙々と作業しているのが分かった。吹きつける熱気に呆気に取られ、文雨は首をすくめる。
「あれが
「……鐘楼もある」
暮白はつと視線を上に向ける。煉丹炉が並ぶ作業場の奥には鐘楼が聳え、一定間隔で鐘が突かれていた。煉丹の作業の基準になっているのだろう。
「ちょうど良い。李道長、あれを鳴らせるか? できるだけ人を引きつけたい」
「分かってるって。沈道長こそ、僕を置いて逃げないでよ。逃げたら絶対祟るからね」
「うん」
珍しく笑ったような気配がして隣を見たが、暮白はすでにいつもの無表情になっていた。彼は布の下に抱えていた七星剣をそっと取り出す。文雨は金古紙を握りしめて何度目かの溜息をついた。
「ああ、こんな場所で召請したくないのに……祭壇も無いし……怒ったらどうしよう……」
「祭壇ならあるだろう」
「――まさか煉丹炉のあれ? あれって祭壇というか、窯に近いんじゃ……」
「もう行こう」
あっさり言って、暮白は作業場へと歩き出した。文雨は慌ててその背を追いかける。
作業している門弟たちは、暮白と文雨をたまたま迷い込んできた参拝客だと思ったらしい。最初にこちらに気づいた男は、少し迷惑そうに眉をひそめた。
「すみません、こちらは危険ですので立ち入らないように――」
彼は言う途中で暮白の手にある剣に目を留め、表情を強張らせた。
「――あの、あなた方は、」
暮白は剣を引き抜く。鈍く剣身が輝いた。
「悪いが、丹薬をいただく。逆らったら斬る」
門弟は怯えたように一歩下がった。あれで人は斬れないのに、と思いつつ、文雨はコソコソと移動して炉のそばへと向かう。
「――賊だ! 誰か来てくれ!」
俄かに場が騒然とする。目立たないよう身を屈めて這いつくばり、丹鼎の乗る壇へと近づいた。煉瓦の隙間から燃え盛る火の粉が散り、鼎から濛々と蒸気が立ち上る。
熱気に噎せながら、文雨は金古紙を壇の火の中へと投じた。
「天に穢気無し、地に祅塵無し――お招きします、
囁く声は騒音に掻き消される。でも確かに届いた――それが、文雨には分かる。
その証に、大気を震わせるほど大きく、鐘楼の鐘がひとりでに鳴り出した。
***
「なんだ、あの音?」
「見ろ、鐘が勝手に動いてる」
「どういうことだ?」
狂ったような鐘の音は本殿にまで届いていた。門弟は戸惑ったように顔を合わせ、参拝客は不安げに騒めいている。それを眺め、
――始まったのか。
勝手に鳴り出した鐘は周囲にも共鳴し、あちこちにある鐘楼から重い金属音が響き出した。騒ぎを起こすのが得意というのはどういう意味かと思っていたが、確かにこれはずいぶん派手だ。
間を空けず、煉丹炉の方向から一人の門弟が走ってきた。彼は煤に塗れた悲惨な顔で叫ぶ。
「賊だ! 薬を盗もうとしてる、来てくれ!」
本殿の門弟たちは途端に浮き足立った。参拝客にも波紋が広がり、混乱が伝染する。
「賊は気味の悪い妖術を使うんだ。勝手に人が倒れてる。このままだと――」
「大声で言うな。錫杖でも鍬でもいいから、何か持ってこい。賊は捕らえる」
「わ、分かった」
鐘の音は耐えがたいほど大きくなり、鼓膜を震わせていた。混沌とする場から抜け出し、安玖は早足で本殿の裏手へと回る。裏手からは回廊が伸び、周囲の他の殿堂に繋がっていた。
目指すのは一番右端の洞穴だ。赤い夕焼けは濃紺に徐々に染まって視界は暗くなってゆく。忍び込むにはちょうど良い時間帯だった。
木々の間に点在する殿堂はどこも静まり返っている。ここが円雲観に住む信者や門弟の居所だろうが、不気味なほどの静寂で人が住んでいるような雰囲気ではなかった。覗いてみたくなったが自制し、小走りで入り組んだ回廊を渡る。
「――ちょっと」
唐突に呼び止められて心臓が跳ねる。振り返ると、怪訝そうにこちらを見る道服姿の門弟がいた。
安玖は浄身布を引き寄せて顔を隠し、俯く。どうしようかと必死に考えながら、近づいてくる門弟の足元を見つめた。
「すみません、参拝の方はここに入らないで――」
「ご、ごめんなさい、分かってます、分かってるんですけど、でも」
相手の言葉を遮り、安玖は懇願するように手を合わせて跪いた。
「さっきの、鐘の音に驚いて、逃げないとって――あれはきっと天変地異の前触れですよ!」
「そんなことは」
「絶対そうです、ほら!」
大声で誤魔化し、出鱈目な方向を指差す。勢いに押され、つられてそちらの方向を見た門弟の足を思い切り引っ張った。
「うわっ」
ひどく痛そうな音がした。後頭部を欄干にぶつけたらしい。頭を押さえて呻く門弟の首を絞めて意識を落とし、道服の外衣を剥ぎ取る。
これでは追剥と変わらないが、仕方ない。外衣を羽織って、転がっている門弟には代わりに浄身布を掛け、安玖は再び小走りで回廊を進んだ。何人か門弟の姿を見たが、一見同じ道服の安玖は呼び止められることなく洞穴まで辿り着くことができた。
洞穴の前の石門に見張りはいなかった。騒動の方に向かったのか、普段から見張りはいないのかは分からない。
すでに陽も落ち、視界はひどく暗くなっていた。洞穴の向こうからは温い風が吹き寄せてくる。一歩踏み込むと、岩肌に穿たれた穴に燭台があった。勝手に拝借して火を点け、中を照らす。
思ったよりも洞穴の中は整備され、岩肌は滑らかに削られていた。
――この奥に化け物が?
気は進まないが、暮白と文雨の時間稼ぎにも限界があるだろう。安玖は法鞭を構えて奥へと向かった。
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