一話:七

 王都である桂昌けいしょう、そこの官庁街である皇城の近く、都を南北に貫く大通りのそばに古い道観がある。硬く門扉は閉ざされて扁額も無いが、十年前に当時の皇太子――現皇帝が買い取り、それ以来度生どしょうの官署として使われていた。


 そこに与えられた自室の中で目を覚ました暮白ムーバイは、目覚めたことにまず驚いた。

 ――死ななかったのか。

 ぼやけた視界が徐々に明瞭になってゆく。硬い寝台に横たわった身体を苦労して起こし、絡まった髪を無造作に避けた。広くなった視界に見慣れた狭い部屋が映る。

 危ういところを生き延び、自室に帰ってきたという感慨は特に無い。殺風景な部屋の様子をぼんやり眺めていると、扉を開けて誰かが入ってきた。


「あ、すみません。起きてたんですね」


 勝手に入ってきた男は全く悪びれず穏和に笑っている。墨玉を溶かしたような髪と瞳には見覚えがあった。

アン大夫だいふ……」

 何か言おうと思ったが、言いたいことや聞きたいことがありすぎて言葉に詰まった。


 彼は呑気な笑顔のまま無遠慮に近づいてきた。そのまま手に持っていた薬湯を枕元に置くと、寝台のそばの椅子に腰かける。

シェン道長、二日も眠ってましたよ。身体はどうですか? 俺が診たので大丈夫だとは思いますが」

「……うん……」

 まだ眠気でぼんやりとした頭で頷き、それから慌ててかぶりを振った。

「それで、――いや、私が助かったということは――……まさか大夫だいふ、禁術を使ったんですか?」

 最も気に掛かっていたことを問うと、安玖アンジウは苦笑いで手を振った。拍子に袖が下がり、手首の刺青が露わになる。


「使えないって言ったのはあなたでしょう。俺は単純に、疫神の本体を殺しただけです」

 確かに、禁術を使えば無事では済まない。だが正直、彼一人で疫神をどうにかできると思っていなかった。

「本体を? 一体どこに……」

 身を乗り出した暮白を、彼はやんわり寝台に押し戻した。

「説明するので落ち着いてください。疫神とはいえ神の一種だから、祟りを解くのも少し面倒なんです。あなたはまだ完全に恢復したわけじゃない」

 言いくるめられ、薬湯をまず飲まされた。舌が痺れるような苦さに辟易しながら飲み下すと、安玖はやっと説明しだした。



「まず、あの寺院が建てられた経緯ですね。これは王靖ワンジン殿が追加で調査して分かったことですが、八十年前、あの場所には巨大なくすのきがあったそうです」

「……木?」

「はい。そこに雷が落ちて、樟は倒れた。以来、あの土地では疫病が多発して、それを鎮めるために寺院が建てられたらしいです」

 ――雷の落ちた木。

 暮白はその意味を理解し、目を見開いた。

霹靂木へきれきぼくか」


 雷が落ちた木――霹靂木には、神が宿るとも、祟るとも言われる。仏像を作る際の材料として、わざわざ霹靂木を選ぶこともあると聞いたこともあった。それは祀るためと祟りを鎮めるためと、その両方の意味がある。


 安玖は一つ頷いて話を続けた。

「おそらく霹靂木に疫神が宿ったんでしょう。それで、寺を建てた僧侶は神を鎮めるためにその樟を使って仏像を彫りました。たぶん、あの地下にあった仏像の群れがそうです」

 あれほど大量に彫ったのは、願掛けのためではなかった。巨大な樟に宿った疫神を封じるためだったのだ。

「気づいてみると当然のことですね。というか、最初から樟の話が分かっていればああも苦労しなかったのに」

 溜息をつき、安玖は眉を下げた。

「年月が経って仏像の表面が摩耗して、封印が甘くなったんだと思います。だから再び祟りが始まって、でも伝承がどこかで途絶えてしまったせいか、あの寺の僧侶は誰も対処できなかった。疫神の方も中途半端に封印されているから、あの寺から移動することはできなかった。それで、寺に入った者だけ祟りに遭うようになったんでしょう」


 納得し、暮白は額を押さえて深く息を吐いた。

「……じゃあ、私があの化け物を斬って死にかけたのは無意味だったのか」

「そんなことないですよ」

 安玖は気休めか本気か、半笑いでそう言った。

「あなたがあれを斬ってくれたから、疫神自身も相当弱ったみたいです。あの仏像を全部外に運んで火をつけたら、簡単に燃えましたから」

 八十年前、わざわざ仏像として彫って封じたのは、火による浄化ができなかったからだろう。それが普通に燃えたというのは、確かに疫神が弱体化していたからだ。

 だが、暮白はぎょっとして目を見開いた。

「そんなことをしたんですか? もし燃えなかったらあなたも祟られるかもしれないのに」

「運が良かったみたいです」

 さらりと言って、安玖は笑う。

「でもその後が大変でした。盛大に燃やしてたら、火事だと思われて救火の兵が来るし、火付けかと思われて捕吏を呼ばれるし……」

 彼は深刻そうに消火に来た兵と捕吏に追われた話を語った。それは安玖の浅慮が原因ではないかと思ったが、助けられた手前、何も言えずに曖昧な顔で話を聞いた。


「――そういうわけで、リー道長が着く前にちょっと投獄されてしまって、結局彼とは会えませんでした。彼が寺院全体の浄化もやっておいてくれたようですが」

「投獄? それは……ずいぶん、迷惑をかけたようだ……」

「いえ、王靖殿のおかげですぐ出られたので問題ないです。あなたのせいでもないし」

 安玖は穏やかに笑っている。

 初めて会った時はあまり頼りにならなそうだと思っていたが、気づけばずいぶん助けられてしまった。

 そう思って、まず言うべきことを言っていなかったことに気がついた。


「安大夫だいふ、助かりました。ありがとう」


 そう言うと、安玖は妙に驚いた顔で暮白を見つめてきた。

 それほど驚かれるようなことを言っただろうか。それとも、礼など言えないような人間に見えていたのか。――あり得るような気がして、少し己を省みた。

 安玖は驚いたことを取り繕うように口角を上げた。

「いえ、俺もあなたに助けられたからお互い様です。あなたがいなかったらたぶんすぐ死んでいたので。――親切ではないとか言ってましたけど、そんなことないですよ」

「……」

 余計なことを言って、彼は立ち上がった。

「しばらくは安静にしてください。これでも一応大夫いしゃの端くれなので、何かあれば声を掛けてくださいね」

 安玖は替えの衣服や薬湯などを置いて部屋を出ていった。その外面だけ見る限り、彼が到底流刑に相当するような重罪人には見えない。

 だが、暮白は彼が寺で言った言葉を覚えていた。


 ――そんなクソみたいな理由で諦められると腹が立ちます。あなたのそれは罪の報いなんかじゃない。


 あれを聞いた時、彼が確かに度生司に来るような道を外れた方士であると分かった。罪の報いを否定することは、方士の信仰を否定することとほぼ同義なのだ。


 そして、禁術とはまさにそういうものだった。信仰から背いた外道の方術、それをまとめて禁術と呼ぶ。


 彼がどのように治病を行ったのか、それが何をもたらしたのか、詮索する気は無い。ただ、彼が今でもあのような考えを持っているのなら、多少問題がある。度生司の方士は、禁術には二度と関わらず、その恐ろしさも理解し、きちんと更生した――と、建前の上ではそうなっているからだ。

 本来なら王靖に報告するべきかもしれない。しかし、その決心はつかなかった。結局暮白も同類だから、彼の言葉にどこか共感を覚えてしまうのだ。


 俯くと、色の抜けた髪が肩から滑り落ちる。この奇妙な白髪は、暮白が禁術を使った結果、得たものだった。

 ――二度と禁術は使わない。

 手首の呪詛が許さないし、自分でもそう誓った。そのはずだ。

 それでもまだ未練が残っているのは、安玖と同じように、暮白もその性根が治っていないからかもしれなかった。

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