一話:六

シェン道長、大丈夫ですか?」

 やや呑気になってしまったのは、化け物は倒せたと思っていたからだ。


 しかし、暮白ムーバイは血だまりに倒れ伏したまま動かない。疲労で気絶したのだろうか。――だが、剣の柄を握った手がひどく震えているのが見えて、溶けるように安堵が消えた。

 彼のそばには首を失った巨鳥の身体が倒れている。断面からはなおもだくだくと黒い液体が溢れ、噎せかえるような腐臭が周囲に広がっていた。――なぜ気づかなかったのだろう。疫神の血も呼気も、病の元だ。


 慌てて暮白のそばに膝をついた。顔色は分かりにくいが、呼吸が尋常でなく速い。触れた身体もひどく熱かった。

「沈道長、俺が分かりますか?」

 声を掛けたが反応が無い。手首を掴むと、浅く速い脈が伝わってきた。

 血だまりから身体を引きずりだしながら声を掛け続ける。しかし反応は無く、支えた身体は痙攣のように細かく震えていた。

 とりあえず投げ出された剣を回収し、苦労して暮白の身体を引きずって巨鳥の死骸から離れた。このまま外に出て医者に診せようと思い、それでは意味が無いと気づく。

 ――これは疫神の祟りだ。

 なら、ただの医者では意味が無い。祟りの原因をどうにかしなければ、暮白は助からない。


 迷った末、地下からは出ず、心なしか腐臭の薄い場所まで遠のいて暮白の身体を横たえた。

 少しでも呼吸を楽にするために襟元を緩める。次いで、外衣を脱いで彼の身体に付着した血を最大限拭った。そうする間に暮白は眉間に皺を寄せ、薄っすらと目を開く。

 視線は彷徨い、遅れて安玖に焦点が合った。熱っぽく潤んだ目が訝しげに安玖を見つめている。

「……大夫だいふ、なぜ逃げない?」

「はい?」

「逃げた方が良いです。たぶん、あの鳥は疫神の本体じゃない……」

 耳を寄せて呂律の怪しい言葉をどうにか聞き取り、安玖アンジウは目を見開いた。

「本体じゃない?」

「殺したはずなのに祟りを受けた。なら、あれとは別に、疫神の本体がどこかにいる……」

 顔を背けて数度咳き込み、彼は掠れた声で続けた。

「ここにいたら、あなたも祟りを受けるかもしれません。逃げた方が良い」

 それは暮白を見捨てるのと同義だ。驚きに言葉を失った安玖に対し、彼は冷えて淀んだ目を向けた。

「大丈夫です。外で待っていれば、いずれリー道長が来る。彼ならたぶん、祟られずに疫神を始末できるので……」

 しかし、その間に暮白は死んでしまうだろう。でも、と言いかけた安玖より先に、彼は淡々と言った。

「私は……別に構いません。元から、死刑を受けるはずだった」

 死刑ということは、流刑より重い。安玖は瞠目して暮白の顔を見た。――この男は、一体どんな罪を犯したのだ。

 彼は特に悲痛さも無く、事実を述べるように言った。

大夫だいふなら分かっているはず……が来ただけだ」

 暮白の言葉に、安玖の顔から表情が消えた。



 正直なところ今すぐ逃げ出したかったし、別に暮白を見捨てたところで良心など痛まない。苦しんでいる人を見捨ててはいけないという殊勝な気持ちはどこにも無かったし、相手は死刑相当の罪人だ。彼の言う通り、逃げるのが一番最善手だろう。

 だが、罪の報いという言葉だけはひどく嫌いで、聞き流すことはできなかった。


 方士の世界では、病も死も、全て罪の報いと考えられる。病気になるのも死んでしまうのも、皆その人が罪を犯したせいだ。――その考え方が嫌いで堪らなくて、安玖は禁術まで犯した。

 なのに、またそんな言葉を聞く羽目になるとは思わなかった。普段なら大抵のことは笑って流せるのに、これだけは駄目だ。

 自分が怒っていると自覚して、投獄されてもこの性根は治らなかったらしいと半ば呆れた。



「……沈道長、悪いですが」

 安玖はにっこり笑って暮白の顔を覗き込んだ。

「そんなクソみたいな理由で諦められると腹が立ちます。あなたのそれは罪の報いなんかじゃない。どこかにいる疫神の本体を殺せば治るんでしょう」

「……は?」

 暮白は初めて、当惑したような表情で安玖を見た。

「俺は道医です。病なら俺が治す。――沈道長、ご存じですか?」

 深く息を吸い、自身の躊躇を無視して一息に言った。

「俺は偽の丹薬を売って、治病を騙った詐欺師です。でも、俺の客で病が無くならなかった人はいない」


 安玖は確かに病人を治したわけではなかったが、彼らを苦しめる病を消すことだけはできた。――しかしそれは一般的な治病の方術ではなく、禁術と判断された。

 だから投獄され、流刑を言い渡されたのだ。


大夫だいふ、何を言って……」

「とりあえず眠っていてください。ご心配せず。俺は一応、名医として有名だったんです」

 暮白は唖然としたように目を瞠り、それから嘆息した。

「……あなたは馬鹿ですか? 罪人を助けても意味など無いのに……」

「生憎、俺も罪人だからどうでもいい」

 言いながら、指を噛み切って溢れた血を暮白の額に押しつける。


「日を以って身を洗い、月を以って形を練る……水をい清めよ……」


 身を浄めるためのしゅだ。気休めにしかならないが、やらないよりましだろう。暮白は諦めたようにされるがままになっている。

 指先の血を拭い、まだ困惑しているらしい暮白に問いかけた。

「ちなみに訊きますが、ここで禁術を使ったらまずいですか?」

「……当たり前です。即刻手首の呪詛で死ぬことになる」

 そうですか、と安玖は苦笑して立ち上がる。一応訊いてみたものの、ここでは安玖の治病の術は使えない。宣言した通り、疫神の本体とやらを地道に探すしかなかった。


 とりあえず、護身のために暮白の七星剣を借りた。暗い地下の気配を探ってみたが、あの巨鳥のような影は見えない。床には落ちた仏像が散乱していたが、最初に見た時のようにひどく静まり返っていた。

 一応巨鳥の死骸を見に行くと、すでに巨体は腐り始めていた。どろどろとした腐肉を剣の先で掻き分けたが、死骸の中に本体らしいものは見つからない。転がった僧侶の首はすでに骨となっていた。

 手掛かりは少ない。しかし、疑問に思っていることならあった。


 そもそも疫神の本体とはどのような姿をしているのだろうと思う。鳥は確かに疫病の象徴だが、それは鳥が感染病のようにするからだ。あるいは、疫病が人から人へ飛び火するからこそ、鳥のように翼を持つものが想起されたのかもしれない。

 ――しかし、この寺院では疫癘の祟りは寺に入った者に限定されて、他には広がっていない。あの鳥の両翼も折れていた。それは疫神がここから移動できないからではないか。


 なぜ移動できないのか。――妥当なのは、疫神はこの寺に封じられたか鎮められたかしている、という推測だ。疫神は棲みついたわけではなく、元からこの寺院に封印されていた。それが年月を経て綻びが生じ、ああして鳥の姿を借りて祟りを引き起こしている。だが、封印のせいでここから動くことはできない。――ありえなくはないと思う。

 では、一体どこに封印されているのか。寺院の敷地内ならどこでも可能性はあるが、やはりあの巨鳥が棲みついていたこの地下が怪しいだろう。


 安玖は闇の中、微笑を湛えて見下ろしてくる仏の群れを眺める。血の臭気に満ちた地下に慈悲の笑みは似合わない。


「……なるほどな」


 確かには、疫神を封じようとするなら相応しい形だろう。

 しかし、今からでも暮白を見捨てて逃げようかと迷うくらいには、大変な重労働になりそうだった。

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