一話:五
異形の化け物は緩慢な動きで通路をこちらに向かってくる。白濁した目は明らかに二人を捉えていた。その視線には、はっきり害意が含まれている。
「――あれ、急所とかあるんですかね?」
「首を落とせば多少は弱るはず。あなたがあれの気を引いてください。私がその間に首を落とします」
「ええ……嫌です。一瞬で蹴り殺されて終わりじゃないですか……」
「なら役割を交換しますか?」
「もっと嫌ですが……」
「我儘を言わないでください。嫌なら代案を出せば良い」
そんなものを思いつけるわけが無い。だが、安玖だってこんな場所で死にたくない。
「もっと他にこう、何かありませんか? 度生司ってこういうことが仕事なんですよね? こんな適当な感じで今までやって来れたんですか?」
「我々は使い捨てです。失敗すれば死ぬだけだ」
最悪な答えが返ってきた。安玖の引き攣った顔を見て、暮白は弁明するように言う。
「……一応、ああいうものの対処は
「李道長?」
「逃げ出そうとして貧血で寝込んでいる人です」
会ったこともない「李道長」に仄かな殺意を覚えた。
「その人、今からここまで来れないんですか?」
「起きたら来るよう言ってありますが、当分無理です。――大体、あなたは道医だったんでしょう。なら疫病のことは詳しいのでは?」
「俺は詐欺師だって言ったじゃないですか……」
あんな話の通じなさそうな化け物の相手をしたことはない。安玖は人間の相手しかできないのだ。
不意に、太い鉤爪が石床を蹴った。人と鳥の中間のような奇声が耳を劈く。同時に並ぶ仏像がバラバラと落ちて、喝采のように硬い音が次々響いた。
暮白は無言でいきなり突き飛ばしてきた。安玖が先までいた空間を鉤爪が薙ぎ払う。爪を剣で受け流した暮白は、そのまま手首を返して硬い岩のような脚を斬りつけた。
血が飛び散って奇声が上がる。噴き出した温い血が茫然と膝をつく安玖の頬にわずかに掛かった。
悪い夢のようだった。だが、目の前で暴れる化け物は本物だ。藻掻き、床を叩く翼が眼前に迫り、咄嗟に法鞭で絡め取った。
粘ついた体液に濡れた羽根が抜け落ち、宙に舞って視界を塞ぐ。鞭を引き千切ろうとするように巨鳥はいっそう暴れた。乱杭歯を剥き出して吼える僧侶の形相は、もうほとんど人間のようには見えない。
「そのまま!」
堪らず鞭を解こうとしたのを制止し、舞い散る羽根の向こうから突っ込んできた暮白は、鞭で拘束された翼を剣で貫いた。
悲鳴じみた鳴き声が上がった。暴れ回る巨体にさすがに耐え切れずに鞭を解く。間髪入れずに暮白に腕を引っ張られ、棚の向こうへと引きずられるまま走って逃げた。
まともに返り血を浴びたのか、暮白の白髪は斑に赤黒く濡れている。掴まれた腕越しにも濡れる感覚があって、見るとその手も血まみれだった。
背後からは追ってくる音が聞こえるが、棚に阻まれて進みは遅い。ついでに棚に並ぶ仏像を適当に掴んでは後ろに投げた。あまり意味は無いだろうが、軽い足止めになればと半分祈るようにそう思う。
「シェ、沈、道長、一旦、ちょっと、止まって」
引きずられるように走り続け、周りも背の高い棚と仏像に遮られて方角すら分からない。疲れて足が鈍ると、ようやく暮白も止まってくれた。
息が上がってまともに話せず、しばらく俯いて棚に寄りかかる。暮白は七星剣についた血を袖で拭い、通路の向こうをじっと見つめた。
「破邪の剣は効くようだ。良かった」
「……でも、このまま逃げ回っても、いずれ死にますよ」
安玖は疲れた声で言い、頬に付いた血を拭う。
「そもそも、なんでこんなところに疫神が棲みついてるんだか……ここの僧侶はあんなものを祀ってたんですか? おかしいですよ……」
「今はどうでもいいです。まずあれを片付けないと、外にも出られない」
そう言う暮白の顔色は悪い。さっきより呼吸も辛そうに見えた。
「安
やりたくないが、やる以外の選択肢が無い。安玖は表情を取り繕うことも忘れて嘆息混じりに言った。
「やってみますが、沈道長はどうするんです?」
「私は首を狙ってみます。運が良ければ何とかなる」
「運?」
あまりに自分たちにそぐわない言葉に、安玖は思わず笑ってしまった。
「罪人が二人いて、良い結果が得られると思いますか?」
良い行いには良い結果が返ってくる。悪い行いには悪い結果が返ってくる。――それが方士にとっては当然のことだ。因果応報という言葉を暮白が知らないはずも無い。
暮白は少し顔色を暗くする。また冗談を真面目に受け取ったようで、安玖は内心焦った。
「まあ……今回はきっと大丈夫です。悪業の報いは死後に受けましょうか」
敢えて軽い口調で言って、彼の肩を叩いた。
「あなたが何をしたのか知りませんが、俺もあなたもどうせ地獄行きだし、たぶん見逃してくれますよ」
「……あなたは、」
暮白が呆れたように何か言いかけた時、薄闇の向こうから濃い影が現れた。
片脚を引きずり、片翼からどす黒い液体を垂れ流している。宙に浮いた蒼白な僧侶の顔、その濁った眼からも涙のように血が流れていた。甲高い鳴き声は徐々に人の声のようにしわがれ、死にかけの人間が発する呻き声のように変わってゆく。
暮白は庇うように安玖の前に立った。
「……来る」
彼の囁くような言葉と共に、再び化け物は地を蹴った。
破邪の剣で傷つけられたのが効いているのか、さっきよりずいぶん動きは鈍い。安玖が法鞭を振るうと同時に暮白は走り出した。
片脚を鞭で捕らえると、巨鳥は一瞬体勢を崩す。身体を持って行かれないように棚にしがみついたが、相手が暴れるたびに腕が震えた。安玖の膂力ではほんの少ししか持ち応えられない。
それを分かっているのだろう、暮白は一切躊躇せずに化け物に向かって走っていった。彼は痛みに藻掻く巨鳥の首を力尽くで押さえ、そのまま剣を振りかぶる。
一瞬ののち、刃が巨鳥の首に沈んだ。骨にぶつかったのか、首の半ばまで食い込んで止まる。わずかな静寂のあとで悲痛な叫びが鼓膜を揺らした。
巨鳥は大きく身体を痙攣させた。安玖は勢いよく引きずられて床に転び、鞭を手放してしまう。
「
視線を上げた先、暮白は一息に剣を引き抜いていた。血が噴き出し、震える巨鳥の身体から力が抜ける。夥しい量の返り血を真っ向から浴びたまま、彼はもう一度剣を振り下ろした。
今度は、首が完全に落ちた。振り下ろされた剣の鋼が石床に噛む硬い音が響く。痩せ衰えた僧侶の首は粘ついた血を撒き散らして転々と跳ねた。
――上手く行ったのか?
意外にも、本当に運が味方をしてくれたのだろうか。まだ信じられないような気分で、床に転がった首を見る。それから死骸の元に立ち尽くす暮白に視線を遣った。
剣を下げた暮白は頭から真っ赤に染まっていた。転がった僧侶の首より彼の方が化け物のようだ。その有り様になんだか可笑しくなって、強張った身体からゆっくりと力が抜ける。
暮白はふと安玖を見た。微かに口を開けたが、声は無かった。赤黒く濡れそぼった顔は表情がよく見えない。
「……すごいですね、沈道長。あんなのを倒すなんて」
助かった安堵で口が軽い。安玖は床を掻いて身を起こし、転がった鞭を拾って立ち上がった。そのまま笑顔で暮白に近づく。
結局、化け物を倒したのはほとんど彼だ。礼を言おうと口を開いた時だった。
暮白は唐突に、糸が切れたように床に倒れた。
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