三話:二

 石壁から落下し、ぬかるんだ地面に転げた男は、不貞腐れた顔で腰を擦っていた。

「……リー道長、いい加減懲りないか」

 駆け寄った暮白ムーバイが蔑んだように見下ろすと、彼は泥まみれの顔をこちらに向けた。

「ああ、なんかすごい久しぶりだね、シェン道長……そっちは誰?」

 億劫そうに訊かれ、安玖アンジウは手拭いを渡して答えた。

「道医の安玖です。あなたが李道長?」

「そうだよ、リー文雨ウェンユー。……あれ、安玖って、寺に火付けして投獄された人だっけ?」

「俺は火付けじゃなく浄化しただけです」

「はあ、なるほど……」

 安玖の手拭いで顔の泥を拭った文雨は、礼を言って立ち上がった。


 小柄な男で、まだ十七、八歳ほどに見える。どこか荒んだ気が弱そうな顔で暮白を見上げ、彼は溜息をついた。

「僕は一生、間が悪いんだな……なんでまたこんな場所に沈道長がいるんだ……」

「……いては悪いか」

「いやいや滅相も無い。ただ、あなたに草花を愛でるような気持ちがあったんだなあと意外で」

「余計なことは言わなくていい」

 険しい顔で暮白は文雨の腕を取った。

「逃亡を図ったら罰房に入る。それが決まりだ。こちらへ」

「ええー、いや、ちょっとね、ほら、石壁の向こうを覗いてみようかなって思っただけなんだよ。見逃して!」

「なぜそんなことを?」

「え……うーん……暇潰し、かな……」

「では罰房で暇を潰しなさい」

「嫌だ、やだって、助けて!」

 いきなり必死の形相でしがみつかれ、安玖は薄笑いを浮かべた。


「あー、沈道長、まあ、未遂だから見逃しても良いんじゃないですか?」

大夫だいふ

 咎めるように睨まれたが、安玖は全く応えなかった。

「寺院の時は李道長に後始末を全部お願いしてしまったし、いいじゃないですか」

「……」

「俺に免じて、頼みます」

 暮白は一度溜息をつくと、そのまま無言で立ち去っていった。解放された文雨は、安玖の腕にしがみついたままぽかんと口を開く。

「……あれ? 本当に見逃してくれた? なんで?」

「どうだろう。縄でも持って帰って来るかもしれませんね」

「それ、本当にやりかねないんだよ、あの人……」



 暮白の背が完全に見えなくなったところで安心したのか、文雨は平伏す勢いで頭を下げてきた。

「本当に助かったよ、ありがとう」

「いえ、お互い様なので」

「でも沈道長が譲歩するなんて信じられないな。もしかして、あの人の弱みでも握ってたりする? 何かあるなら教えてよ」

「……そんなまさか」

 勝手に向こうが引け目を感じているだけだ。安玖は虚ろに笑って文雨を見た。


「それで、なんで逃げようとしたんですか? 任務から逃げるため?」

 文雨はまた不貞腐れたような顔で首を横に振った。

「そんなんじゃない。そもそも僕にはこんな場所に閉じ込められる理由が無いんだよ」

「そうなんですか」

 安玖のおざなりな相槌を気に留めず、文雨は勝手に話を続けた。

「僕は禁術なんて使ってないんだ。だから、度生司にいる理由が無い」

「……そうなんですか?」

「可哀想だと思うよね? 同情してくれてもいいよ。僕の逃亡を手伝ってくれたら一生感謝するから」

 彼は一方的に言って、驚いている安玖を置いてふらふらと園林を出て行った。



 ***



「――というわけで、お前たち三人に働いてもらう」

 疲弊した顔の王靖の隣には、縄で縛られた文雨が転がっていた。暮白から見逃されたのをいいことに、懲りずにまた逃亡しようとして今度は王靖に捕まったらしい。

 責めるように睨んでくる隣の暮白から視線を逸らし、安玖は首を傾げた。

「荷華仙女の件ではないんですか?」


 王靖から説明されたのは、桂昌の外城にある円雲観という道観についてだった。そこは資金難で運営できなくなって無人になったものの、二年前にある人物が買い取ったのだという。


「円雲観を買い取ったのは、荷華仙女を身請けした人物と同じだ。関連があるかもしれないし、彼女の逃亡先である可能性も高い」

 身請けした人物については言えないのか、王靖はそこには触れなかった。

「現在は円修門という連中が円雲観を拠点として借り、活動している。十年ほど前にできた教団らしいが、最近急に信者が増えているそうだ。――お前たちには、円修門の実態の調査も兼ねて行ってきてほしい。危険なら禁教令を出さなくてはならない」

「危険というと?」

 暮白が訝しげに問うと、王靖は眉をひそめて手元の書状に目を落とした。


「……円修門は閉鎖的で、信者は大抵、道観内部に引き籠って生活している。どういう暮らしをしているのか不明だが、ごく稀にそこから逃げ出してくる信者がいる。まあ、元信者か」

 言って彼は、陰鬱に溜息をついた。

「逃げ出してきた彼らは一様に衰弱していて、大抵は逃亡の途中で死んでしまう。だが一月前に一人、口が利ける状態の元信者が保護された。彼はずっと、道観の奥にがいると繰り返している」

「――化け物?」

「錯乱していてよく分からないが、このままだと自分もその化け物になると思い込んでいるらしい。何にせよ、民に害のあるものなら円修門は潰さなければならない。分かるな」


 しかし、と暮白はどこか不安そうに抗弁した。

「この三人で調査を?」

「何か不満か? 楊汐はまだ貧血が治ってはいないだろう」

「……」

 暮白はうんざりしたように床に転がっている文雨を見る。彼は怯えたように身を竦め、また安玖に縋るような視線を向けてきた。その視線を辿り、王靖も無言で安玖を見る。

 しばらく、居た堪れない沈黙が落ちた。

「……一緒に頑張りましょうね」

 沈黙が苦痛で、試しに笑顔でそう言ってみたが、いっそう場の空気が冷えただけだった。

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