九泉に沈む

陽子

 牢房はひどく狭かった。明かりは鉄格子の外にある蝋燭だけ。周囲には喚き声と恨み言、意味を為さない呻きが響いている。

 それをぼんやりと聞きながら、安玖アンジウは何の感慨も無く、まるで地獄のようだと思った。


 ゆっくりと頭をもたげると、視界の端で乱れた黒髪が揺れた。足には鎖が嵌められ、皮膚に擦れて膿んでいる。

 悲惨な状況だと思うが、それも仕方ない。自分が罪を犯したという自覚はあったし、それを言い逃れする気も無かった。安玖は偽の丹薬を売り、治病を騙って金持ちに取り入った詐欺師だ。そこに間違いは無い。



「――アン大夫だいふ


 唐突に声がして視界が暗くなる。誰かが安玖の牢房の前に立っている。

 まだ安玖のことを大夫だいふ――医者と呼ぶとは、皮肉なのか無神経なのか微妙なところだ。


「起きているだろう。耳はまだ聞こえているはずだが」


 平坦な声に視線を上げた。鉄格子の向こう、燭台を手にした壮年の男がいる。

 揺らぐ炎に浮かんだ顔はどこか狼に似ていた。痩せた顔は険しく、安玖を睨んでいるように見える。全く知らない男だ。

 一瞬獄吏かと思ったが、武官の官服を着ていた。彼は鉄格子のそばで安玖をじっと見つめている。見知らぬ男に呼びかけられる――困惑しても良いはずなのに、今はそうする余裕も無かった。


「道医の安玖で間違いないな」

 問う形でも、ほとんど断定だった。道医とは道術に通じる医者を示す言葉だ。

 答えずに無言で視線を返すと、武官は意に介さず話を続けた。

「私は王靖ワンジン度生司どしょうしという官署やくしょの長官をしている」

 彼の低く掠れた声は、周囲の恨みと喚きに掻き消されずよく通った。見せられた官印も本物だろう。しかし度生司という名を聞いたことは無く、安玖は怪訝に眉を寄せる。


 その疑問を察したのか、王靖という武官は少し首を傾けて口を開いた。

「度生司とは、王都の桂昌けいしょうにおいて特殊な事件の調査を担う組織だ」

 安玖はぼんやりとそれを聞き流した。全く意味が分からなかったからだ。

「分かりやすく言えば、退か。明らかに尋常でないことが起きた時、度生司が調査に当たる。幽鬼ゆうれいや祟り――そういった奇怪なものにはあなたも馴染みがあるだろう」

 そんな馬鹿みたいな官署があるとは知らなかった。わざわざ牢獄まで冗談を言いに来たのならこの武官はずいぶん暇なのだろう。

 しかし、その馬鹿馬鹿しさに可笑しくなって、安玖はしわがれた声で答えた。


「……俺は確かに道医だったけど、そんなものに馴染みがあった覚えはありませんよ」

「構わない」

 王靖は切って捨てるようにそう言い、どこか不機嫌に安玖をねめつけた。

「あなたには今、選べる道が二つある」

「……はい?」

 王靖の顔には蝋燭の炎で奇妙な陰影が落ちている。歪な影は彼を人ではない化け物のように見せていた。


「一つは、このまま牢獄に囚われ、流刑に処される道だ。順当な裁きだな」

 彼は一つ指を折った。安玖は口角を上げ、ゆっくりと首を傾げる。

「それ以外に何かあるんですか?」

「……もう一つは、度生司で働くという道だ」

 王靖は苦々しくそう言った。

 ――働く?

 安玖は驚きを隠そうとしたが、成功したかは分からなかった。武官は陰鬱な表情のまま言葉を続ける。

「度生司において調査を行うのは、を犯した方士たちだ」


 ――禁術。

 説明されずとも、それが何を指しているのかはよく知っている。


「奇怪なことならただの官吏ではなく方士が調べた方が良い。違うか?」

 問いかけられても、そんなことは分からない。安玖は驚愕を隠すのも忘れて茫然と訊いた。

「でも、俺は罪人ですが……」

「他の方士も皆罪人だ。そういう連中を集めている。――あなたは確かに詐欺を働いたが、あなたの行った方術は本物だった。だから、こうして声を掛けている」

 王靖の声音に試すような色合いが混じる。

「度生司として働くならば、この牢獄からは解放される。どうする?」

 呆気に取られて目を見開いた。冗談かと思ったが、相手の顔は気が滅入りそうなほど本気だ。

 辺境で首枷を嵌められて労役に従事するのと、得体の知れない官署で働くのと、一体どちらがましなのだろう。牢獄から解放されるという言葉は魅力的だが、良い話には裏がある。――少なくとも、安玖はそう信じている。


「その……度生司とやらに行って、俺はどうなるんですか? ただ働くだけ?」

「もちろん自由は制限されているし、度生司の方士は職務の途中で死ぬこともある。普通の道士に頼まず、わざわざ罪人だけを集める意味を考えろ」

 つまり、相応に危険が高いということか。おそらく、罪人は死んでも構わない使い捨ての駒なのだ。

 悩む安玖に対し、王靖はただ静観して答えを待っている。


 ――王靖が嘘をついているかもしれない。度生司などという怪しげな官署は流刑よりずっとまともではないかもしれない。


 いくつも、この申し出を断る理由を思いついた。わざわざ重罪人の安玖に声をかけてきた上に、彼は具体的な仕事内容をほとんど説明しなかった。本当にろくでもない仕事なのだろう。それは十分、分かっている。

 それでも、賭けてみようかと不意に思った。深く考えた末の結論ではなく、ただの好奇心かもしれない。以前の自分なら絶対に思わなかったことだ。


 だが、元より、死後に行き着く先は地獄と決まっている。だったら死ぬ前の状況が多少変わったところで大した意味は無い。



 安玖は深く息を吐き、はっきりと王靖の目を見返した。

「なら、俺は度生司を選びます。この牢獄より酷い場所なんてそう無いはず」

 敢えて笑ってそう言った。別に余裕があるわけではなく、単なる強がりだ。

 王靖はひどく暗い目つきで頷いた。

「分かった。――今からあなたは、度生司に身柄を移される」


 これから死ぬまで働いてもらおうと、彼は最後に嫌なことを告げた。

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