一話:四

「沙門……地蔵菩薩か?」

 不意に暮白ムーバイがかたわらで呟き、燭台を持って棚に近づいていく。気味の悪い仏像の群れの中に一人取り残されるのはさすがに不安で、安玖アンジウも後を追った。

「……俺、寺をよく知らないんですけど、こういう空間ってどこの寺院にもあるんですか?」

 何となく声を潜めて問うと、暮白はわずかに茫然とした表情でかぶりを振った。

「私も寺院のことはあまり詳しくないが……異常だと思います」

 蝋燭の明かりに浮かんだ仏の細工は歪んでいた。摩耗して分かりづらいが、小さな子どもが徒に彫ったような線で、手が震えたのか細かい線が何重にも重なっている。お世辞にも上手いとは言えなかった。


「ここ、元はどういう寺だったんでしょう」

「確か、特に宗派は無い民間の寺院だったとか。八十年くらい前にどこかの僧侶が作ったそうです。なぜ作られたのかは知りませんが、ここらに寺が無かったので歓迎されたようです」

 彼は混乱を抑えるように息を吐いた。

「……宗派が無い、民間の信仰だと少々厄介だ。何を祀っているのか、何のために祀るのか、よく分からない……」

 暮白は壁を覆い尽くす仏の群れを見上げ、戸惑ったように瞳を揺らす。

「これも何かの供養なのか、あるいは修行の一つなのか……わざわざ並べているからには理由があるはず」

 安玖は悩む暮白を横目で見て首を傾げた。


「……単純に願掛けとかじゃないですか?」

「え?」

「いや、たくさん彫ったり参拝したり、そういうのって大抵何か願いを叶えるためではないですか? まあ、修行しているなら違うでしょうが、市井の人とかはそうだと思いますよ。これだけ苦労すれば神仏が願いを叶えてくれるはず、っていう」

 道医として市井の病人を診ていた時、彼らが病を治すために神仏でも怪しげな邪物でも構わずに縋ろうとする様子を見ていた。――そして最終的に、安玖のような道医にまで頼る。彼らにとって信仰とはそういう即物的なものだ。

 あまりに単純な推測だっただろうか。少し不安になったが、暮白はふと表情を緩めた。

「……確かにそうかもしれない」

 彼は何度か頷いて言った。

「安大夫だいふの言う通りです。では、一体どういう願いを叶えたかったのか――」

「さあ……この仏像、地蔵菩薩なんでしたっけ?」

「そうだと思います。地蔵菩薩は衆生を救済する。地獄に落ちるような罪人でさえ救うと言われていて――」

 ふと、暮白は言葉を詰まらせた。

「どうしました?」

「いや――だからこれは、」

 滲む蝋燭の炎に浮かぶ白い横顔が、よりいっそう青褪めたような気がした。


「罪人の救済……」



 安玖には彼の囁くような声はよく聞こえなかった。それよりも背後、何か異質な物音がしたような気がして振り返る。

 並ぶ棚の隙間は暗い。炎の揺れと共に石床に伸びる影が変形する。陳列された地蔵菩薩はどれも虚ろな笑みを湛えたまま宙を見つめ、二人の闖入者に構わず静謐を保っていた。

 その間を何かが舞っている。


 暗闇をひらひらと落ちていくそれを掴み取る。――白い羽根。上にも落ちていたものだ。

「本当に鳥が?」

 呟き、闇に呑まれた通路の先を見る。

 ずるずると何か重いものを引きずるような音が微かに聞こえた。同時に、腐臭に近い悪臭が漂う。

 異様な気配に安玖は眉をひそめた。だが、その正体はまだ見えない。


「……大夫だいふ、気をつけた方が良い」

 暮白がふと、強張った声でそう囁いた。彼はいつの間にか剣を抜いている。剣身には七星文が刻まれ、炎を照らして鈍く輝いていた。破邪と護身の銅剣だ。

 ずるり、という音は徐々に大きくなる。棚の間の闇がわずかに揺らいだような気がして息を呑んだ。――音の主は、こちらに近づいてきている。

 重たげな音は巨大な蛇が這いずっているようだ。明らかに普通の鳥などではない。安玖も武器になりそうなものを探したが、懐に入っていたのは法鞭ほうべんだけだった。

 法鞭とは蛇の頭を象った把手のある鞭で、邪霊を打つ法器の一種だ。無いよりましだろうと鞭を構えたが、あまりにも心許ない。


シェン道長……あの、剣の腕にどのくらい自信はありますか?」

 失礼だろうが構っていられない。幸い暮白に気を悪くした様子は無かったが、彼は微妙な表情になった。

「そもそも七星剣は儀礼用で、実戦向きではない。多少は効果があるだろうが、あまり期待しないでください」

「でも俺はもっと役に立たないと思いますよ。大体こういう時って、どうやって対処するか分からないんですが……」

「私もあまり経験はありません。ああいう――」


 引きずる音はもうすぐそこだ。音と共に微かに仏像が揺れている。

 不意に、闇の向こうから硬い鱗に覆われた脚が現れた。


「……相手は」



 ***



 通路から現れた鱗に覆われた脚は明らかに鳥のそれだが、鶴よりずっと大きかった。

 鼻が曲がりそうな甘ったるい腐臭。死体と墓場の臭いに似ている。隣で暮白ムーバイが不快そうに顔をしかめた。


 羽根が宙を舞っている。闇が蠢いている。震動に揺れる仏は笑みを湛えたまま床に落ちた。徐々に通路の奥から巨大な輪郭が浮かび上がって、生温い風が吹きつける。

 暗がりの中で最初に目が合った。白濁した目と苦悶に歪んだ顔。青褪めた肌には死斑が浮いている。剃頭の老人――僧侶の顔だ。

「悪趣味な」

 暮白は剣を構えて険しい顔で呟く。

「あれが疫神か」


 暗がりから巨鳥が現れた。顔は年老いた僧侶だが身体は鳥で、折れた両翼を床に引きずっている。進むたびに抜け落ちた羽根が宙を舞い、脚を覆う鱗の隙間から黒い体液が滲み出た。


 異形の化け物にしばらく唖然とした。悪い冗談なのか、自分の頭がおかしくなったのか。――しかし、いつまで経っても夢は醒めない。

「……あの、俺はすごく、逃げた方が良いと思うんですが」

 遠慮がちに提案してみると、暮白は明らかに軽蔑の視線を向けてきた。

「試したいならどうぞ」

「いやでも、これ、死にませんか?」

「死なないように何とかするんです。大体、逃げても追いつかれそうだ」

 それには一理あるが、本能的に今すぐ逃げ出したくて堪らない。鞭を持て余しながら逃げ場を探す。しかしどこを見ても仏像だらけで隠れられるような場所も無かった。

 往生際の悪い安玖の様子を見て、暮白は冷ややかな目をした。


「諦めてください。ここには私とあなたの二人だけだ。逃げてもどうせ死ぬ。ならば、迎え撃つしかないでしょう」


 その無茶苦茶な発言を聞いて、ようやく、この男も罪人なのだと理解した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る