三話:十

 暮白ムーバイの様子がおかしい――もっと言えば、脱走するつもりではないかと疑っていたのだが、まさか堂々と宣言するとは思わなかった。

 安玖アンジウが唖然としている間に、気づけば門弟たちに取り囲まれていた。


「……本当にこれが策なんですか?」

 囁いたが、暮白は無視してきた。どうやら腹を括って成り行きに身を任せるしかないようだ。しかし、二人を取り囲んでひそひそ話し合っていた門弟たちから「法器を預かる」と言われてさすがに閉口した。

 縄こそ打たれていないがこれでは身を守る手段が無くなる。だというのに、暮白があっさり七星剣を預けてしまって驚いた。


「法器が無いのはさすがにまずいでしょう」

 暮白が預けるなら安玖も従わないわけにはいかない。法鞭を門弟に渡してから言うと、暮白は軽く首を振った。

「仕方ありません。円修祖師に近づければそれで良い」

「でも返って来ないかも。あれ結構良い品だと思いますけど」

「……貰い物なので、別に」

「貰い物?」

 あの高価そうな剣をわざわざ死刑囚に与える人がいるだろうか。怪訝に思って訊こうとしたが、その前に門弟の男が二人に告げた。

「もし本当に度生司の方士ならば、祖師が害することはありません。確認ができるまではお待ちいただきたい」



 二人は門弟に囲まれて本殿の裏へと歩かされた。篝火に照らされ、点在する殿堂はどこも不気味に静まり返っている。周囲を固める門弟たちの持つ松明の炎を眺めながら、安玖は不安を通り越して開き直る気分になってきた。

 どうやらすぐに殺されるような状況ではないし、どうにか時間を稼げば王靖ワンジンが兵を連れて来てくれるだろう――と思ったところで、果たして文雨ウェンユーがきちんと度生司まで戻ってくれるのかが引っ掛かった。暮白と安玖を見殺しにして逃げ出すことはないと信じたいが、考えれば考えるほど信用できない男だと思う。

 もしかしたら選択を間違えたかもしれないと思い始めた時、一行の足が止まった。


 いつの間にか、大きな殿堂の前に辿り着いていた。扁額は無く、甍も黒で夜闇に溶けている。力任せに開かれた門扉は重い音を立て、ずいぶん長い間開かれていないのだろうと分かった。

 開かれた扉から、饐えた臭いと腐臭が淀んだような空気が溢れた。思わず顔をしかめて袖で鼻を覆う。

「ここでお待ちください」

 慇懃だが、有無を言わせない口調でそう言われた。十何人もの門弟に囲まれていては反抗もできず、二人は大人しく殿堂の中に入る。見張りの代わりか、門のそばに槍を手にした男が二人控えたのが分かった。


 壁には松明がいくつか掛けられたが、門を閉じられるとそれでも暗い。中は剥き出しの石床で、隅にいくつか置かれているのはたぶん石棺だ。淀んだ空気と何を考えているのか分からない暮白、おまけに棺と一緒に閉じ込められ、安玖は本気で後悔しはじめた。

 暮白は無表情のまま壁に凭れて目を伏せている。こんな場所で平然としていられるのは精神がよほど頑強か、あるいは何も考えていないのかもしれない。

 真似して隣で壁に凭れると、暮白は鬱陶しそうに視線を向けてきた。


「何ですか」

「剣が貰い物って、誰に貰ったんですか?」

「……ああ」

 暮白は目を逸らす。

「昔のことなので――覚えてません」

 あからさまな嘘に思わず笑ってしまった。笑うと肩から力が抜けて、さっきまでの後悔が薄らぐ。

「でもこれからどうするんです? まさか本気で抜けたいとか?」

「まさか」

 安玖が半ば本当に疑っているのを察したように、暮白はきっぱりと否定した。

「円修祖師は荷華仙女を仕向けて度生司と――正確には、度生司の方士と接触しようとした。なら、ああ言えばきっと出てきます。このまま油断させれば捕らえられるかもしれない」

「荷華仙女を仕向けたのが祖師だと言い切れますか?」

 暮白は浅く頷いた。


「荷華仙女が度生司のことを知っていたのは円修祖師が教えたからでしょう。円修祖師の元には陳易チェンイーがいたから、私や楊汐ヤンシー道長のことは知っていてもおかしくない」

 逆に大夫だいふのことは知らなかった、と続けて言われ、安玖は一拍遅れて理解した。荷華仙女が安玖の事情にだけ詳しくないように見えたのは、陳易がいなくなった後に入ってきた方士だったから、ということか。

 ただ、暮白はどこか歯切れ悪く続けた。

「全部、円修祖師と会えばはっきりする……はずだ」

 まだ何か隠しているのだろうか。安玖はちらりと暮白の横顔を見て、結局追及するのはやめた。


「陳易って俺と同じ道医なんですよね。どんな人だったんですか」

 あの錯乱した有様では為人は分からない。興味を覚えて訊いたが、暮白は少し躊躇ってから、かぶりを振った。

「私は、あまり話したことは……」

「医者として腕は良かったんですか?」

「分かりません。彼は他の方士の治療はやっていなかった。それにもしかしたら――陳易が研究していたのは治病術じゃなかった、と思う」

「医者が治病以外に何をするんです?」

 安玖の問いに、暮白は小さく眉を寄せた。

 顔色の悪さがいっそう増したように見えた。


「……陳易は、他人を救うことに全く興味が無かった」

 吐き捨てるようにそう言って、暮白はじっと床を睨む。

「だから、そう……李道長の言う通り、少し怖い人でした。彼はたぶん――」

 言いかけた言葉は、門扉が開く重い音に遮られた。


 しゃん、と鈴の音が鳴った。錫杖だ。門弟の掲げる松明に囲まれ、開かれた扉の元に壮年の男が立っているのが見えた。

 錫杖を手にした男は緩慢な動きで錫杖を再び突き、安玖と暮白の方に視線を向ける。濁った眼には底冷えするような迫力があった。


「――あなたが円修祖師か?」

 暮白が最初に口を開いた。疑念と確信が入り混じった声に、錫杖の男は目を細める。

「度生司の沈暮白か。死罪人が何の用だ」

 暮白が一歩扉へ近づこうとすると、控えていた門弟たちが一斉に構えた槍の先を向ける。安玖はそれを背後から静観した。暮白がどう対処するつもりか知らないが、今は口を挟むべきではない。明らかに暮白には何か隠していることがあって、それの正体が分からないかぎり口を出すにも出せなかった。


 槍を突き付けられた暮白は、慎重に距離を取った。

「……我々を、度生司から抜けさせてほしい。荷華仙女の裏にいたのはあなただろう」

 錫杖の男はしばらく吟味するように目を伏せ、掠れた笑い声を立てた。

「だとすれば、遅い。私なら、一度断られた取引は二度と行わない」

「しかし、荷華仙女の時は楊汐がいた。あの時脱走しようとすれば彼女に殺されていたはずだ」

「沈暮白は楊汐の呪詛に負ける程度の方士だと? その程度なら価値は無いな」

 はっきりと嘲笑を含んだ言葉に、暮白は少し青ざめた。


「彼女の呪詛から逃げるにはが必要だ。あの時はそれがいなかった」

「そこの男がいただろうに」

 出し抜けに錫杖の先で指され、安玖は目を瞠る。

「――身代わり?」

 唖然とした顔で呟いたが、内心腑に落ちた。あの呪詛にも抜け道があるのだろう。身代わりの立て方は分からないが、あの時、暮白が抜け出そうと思っていたなら安玖が犠牲になっていたらしい。


 暮白はちらりと振り返り、脅すようにこちらを睨んできた。芝居に合わせろという彼の意図を何となく察して、安玖は仕方なく口を開く。

「俺だってこんな仕事で死にたくない。もし本当に度生司から抜けさせてくれるなら、役に立てると思うけど」

 錫杖の男は淡々と問い返す。

「一体何の役に?」

「俺は道医です。煉丹のことも多少分かるし、病人も治せる。どんな病でも。――ほら、ここで役に立つと思いません?」

 値踏みするような視線に薄笑いを返した。少しの沈黙の後、錫杖の男は首を横に振った。

「残念だ。楊汐でない限り、その呪詛は身代わりを立てるしか解く方法が無い」

 だから、と男はごく当たり前のように告げた。


「抜けるならどちらか一人だ。お前たちのうち一人だけ、円修門で引き取ろう。王靖から逃してやる」

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