三話:七

 茫然としていた安玖アンジウは、ふと通路を歩いてくる足音に気づいて我に返った。

 ――まずい。

 ここは逃げ場が無い。咄嗟に周囲を見たが、身を隠す場所はどこにも無かった。とりあえず燭台の炎を消し、濡れた岩肌に身を寄せてうずくまる。

 そのまま息を潜めてやり過ごそうと思ったが、あの厚い木戸が開かれる音がして、炎の明かりが暗闇を照らした。


 明かりが手元にあると、周りの闇はいっそう濃くなって見えづらくなるはずだ。運が良ければ気づかれないだろうと思ったが、相手は足早に鉄格子の前を通り過ぎて真っ直ぐ奥までやって来る。

 安玖はうずくまったまま法鞭の把手を握りしめた。それから慎重に視線を上げようとしたが、先に相手が安玖に気づいて足を速めた。あっという間に距離を詰められ、いきなり肩を掴まれる。


 痛むほど強く肩を押され、岩壁に背を打ちつけた。強引に顎を掴まれて顔を上げさせられ、喉に指が掛かる。そのまま容赦なく首を絞められた。

 息が苦しい。視界が暗い。窒息で死ぬ前に把手で相手を殴りつけようと、安玖は手に力を籠めた。


「――大夫だいふ、か?」


 ふと、虚を衝かれたような声がした。目を凝らすと、揺らぐ炎の明かりの向こう、襲撃してきた相手の顔が見えた。

 見覚えのある白い髪と死人じみた無表情。鼻先が触れそうなほど近くで目が合い、安玖の首を絞めようとしていた手の力が緩む。



 湿った空気がいきなり流れ込んできた。岩壁に手をついて咳き込んでいると、遠慮がちに背に手を添えられる。

「申し訳ない。……勘違いした」

「いや――まあ――大丈夫、です」

 門弟の外衣を奪い取っていたことを忘れていた。そのせいで勘違いしたのだろう。安玖は何度か喉を擦って、どこか気まずそうな暮白ムーバイを振り返る。


「あの、なんであなたがここに?」

大夫だいふが帰ってこないので。李道長の起こした騒ぎもそろそろ収拾がつかなくなってきたし、一旦度生司に戻らないといけない」

 言って、暮白は鉄格子の向こうに視線を向ける。

「……これは、王靖ワンジン殿に報告しなければ」

 その横顔には緊張が滲んでいる。安玖もさすがに笑顔を作れず、白い瘤のようなもので覆われた無反応の人間を見る。


「これ、何だと思います?」

「分かりません。でも、ただの病には見えない。こんな症状を見たことはありますか?」

「無いですよ……病気とはまた違うんじゃないかな……あ、そうだ」

 安玖は一番奥の牢房で倒れている男を指差した。

「この男も妙なんです。俺たちと同じ刺青が手首にあって、しかも自分は円修祖師だって――」

 安玖の言葉の途中から、暮白は何か信じられないものを見たかのように目を大きく瞠って鉄格子に近づいた。

「……シェン道長?」


 暮白は鉄格子を掴み、食い入るように倒れた男を見つめる。力なく投げ出された手にはやはり刺青が刻まれていて、暮白の視線はそこに留まったまま動かなくなった。

「……あの、まさか、この人も度生司の方士、とか?」

 返事は無い。居た堪れない沈黙が落ちて、暮白は不意に安玖を見た。

「この男――連れ出さないと」

「え? いや、無理ですよ。牢房の鍵も無いのに……」

 暮白も牢房を破る方法は思いつかないのか、鉄格子を掴んだまま硬直している。

「……あの、この男、知ってるんですか?」

 窺うように問うと、少し間があって、暮白は呟いた。


「この人は――チェンイー……度生司にいた道医です」



 ***



「あーもう、最悪だ。絶対逃げてやる……」

 鐘が狂ったように鳴り響き、バタバタと門弟も参拝客も倒れていく。円雲観全体が混乱する中で、文雨ウェンユーは目立たないよう身を屈めて小さな殿堂の床下に隠れていた。


 文雨が召請したのは一族で祀っていた女神だ。信者はもう文雨一人だけだが、祈願すれば応えてくれる。

「……ていうかこれ、絶対怒ってる……どうしよう……」

 頼りの暮白は混乱の中でいつの間にか姿を消していた。文雨は召請したはいいものの、鎮める方法を知らない。もう気が済むまで暴れさせるしかなかった。

 鐘娘娘は男を祟り殺す。だから、倒れていくのは男だけだ。贄を捧げていないので殺すほどの力は無いだろうが、できれば気絶程度で済ませてくれと必死に祈った。これで死なせてしまったら、文雨は度生司にもいられなくなって牢獄に逆戻りだ。


 文雨は這いつくばって床下を進む。このまま鼠のように床下に潜ったままやり過ごそうと思ったが、不意に妙な匂いがした。

 ――生臭い。

 頭上からだ。見上げると、床に隙間があるのか、節穴のようにぽっかりと穴が空いていた。


 生臭さはどこか潮の臭いに似ていた。気になって穴を覗き見る。殿堂に人気が無いので蔵か何かだと思っていたが、狭い視界の中、項垂れて床に座る女が見えた。

 妓女のように艶やかに着飾っていたが、彼女の様子はどこかおかしかった。がくりと項垂れ、薄目を開けてどこかを見つめている。女の周りには溶けかけた赤い蝋燭が散乱し、短い蝋燭が一本、細く煙を上げていた。

 蝋燭の炎を見つめているのだ、と遅れて気づいた。女は瞬きもせずに炎を見つめて微動だにしない。


「……ええ、何あれ……」

 見なかったふりをするにはあまりに異様だった。それに、散乱している赤い蝋燭も気になる。

 あれは最近、楊汐がずっと弄っている蝋燭と同じものではないだろうか。何かの任務で回収したのだと言っていたが、詳しい説明は聞き流してしまった。


 しばらく逡巡した。このまま動かず隠れているか、殿堂に忍び込んで女を調べるか。――やるべきなのは後者だ。

 隠れたままやり過ごし、後で暮白に殴られて罰房に入れられる可能性と、殿堂に忍び込む労苦を秤にかけ、文雨は地面に這いつくばったまま溜息をついた。

「仕方ないか……」

 文雨は、殿堂の入り口を目指して進みだした。

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