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それから一週間後、月二ペースに戻ることなく週一ペースのままで。
やることをやった直後、センパイはとんでもないことを言い出した。夏休みに旅行に行こう、お前も同じ大学を受けろ……って、なんだそりゃ。
「お前みたいな姫は僕がいないと駄目だ」
はあ? 姫って誰だよ。お前みたいなって、俺が何だっていうんだ。
「ずっと守ってやる」
……勘弁してくれ。勉強のし過ぎでどこかのファンタジー世界に迷い込んでしまったのか、この人。
「いや……そういうのは俺には必要ないんで。ごめんなさい、石井さん」
ちゃんと、ちゃんと俺は誠意をもって頭を下げて断ったのに。石井センパイは顔を真っ赤にして、思いっきり俺の頬を引っ叩いた。
「もう二度と来るな。薄情なお前のことなんかとっとと忘れる」
来るな、って呼んだのそっちだろうに。まあ、振られたと認識した男の精一杯の捨て台詞なのだろう。だから黙って部屋を出た。そこはいつもの通りの暗がりで。
でも振られたって言ってもね。いつ、好きなんて言ったよ? 俺もあんたも。ただセックスして精液を垂れ流すだけの関係だろう? 守ってやるだとか、守られたいだとか、そんなのじゃない。いつの間に一人で盛り上がってたんだ。
「痛った……なんだよもう」
本当に思いっきり張りやがった。まだじんじんしてる。
一度だけ、とか言っときながらずるずる引っ張ったのはそっちだろ。薄情もクソもあるかよ。情がないからあんたとヤッたんだろうが。つまんねー奴。
「やっぱ学校は駄目だな。後腐れがない奴がいい、外のおっさんがよかったな」
口に出して発散しないと苛ついて仕方がない。どうせみんな寝てるのだ。小声なら邪魔にならないだろう。
一番館の玄関を通ってすぐそばの階段に足をかける。
「内のおっさんはどうだ?」
!?
男の声が。
まるで耳元で声がして。俺はこれ以上ないほどに驚いて膝から力が抜けて。こんな真夜中、誰もいるはずないのに。叫ばなかっただけ偉いと思う。
「おい、しっかりしろ」
崩れかける二の腕を掴まれる。誰かと考える前に、暗がりではっきりと顔が認識できない恐怖に何とか膝に力を入れて堪え、掴んでいる手を振りほどく。
……声が生徒のものじゃない。不審者?
そんな言葉が頭を過ぎり距離を空けようとするも、今度は腰を取られ、強引に引き寄せられた。
「多田、俺だ」
俺って誰だよ!
力に抗えず、本能が逃げろと言うものの焦るばかりで。もう大声を出すしか、でも出せるか?
「や……」
案の定掠れた声しか出ず。それでももう一度と口を開いたら手のひらで塞がれた。塞がれた!
「大声を出すな、俺だ、樫木だ」
カシキっ? カシキって誰だよ、おいっ! ……え。この声、樫木先生、か? 何かされる、殺される、とパニック寸前の中、小さく思い当たった。
「……先生?」
恐る恐る視線を上げると、非常灯の薄緑にうっすらと照らされていたのは、この四月からクラス担任になった樫木という男だった。歳が二十七だったかのまあ普通のどこにでもいるような見てくれの教師。
「そうだ」
手のひらが口から外れて。
一年生の時は他クラスの担任で、俺のクラスの社会担当だったからまあまあ顔と名前は知っている程度(俺は積極的に先生と会話するタイプじゃない)。四月の今は担任とはいえまだロクに話をしたことがなかった。それでも樫木の方は生徒の名前をちゃんと覚えているのだろう。
でもどうしてここにいるんだ。真夜中の寮の玄関に。
正体がわかって冷静になれば今の状況がおかしいことに気付く。
それに、近すぎる。樫木と俺の距離が。
「もう大丈夫なんで手を離してくれませんか」
「構わんが、お前、宿直室な」
は?
「このまま部屋に帰すわけにはいかないからな?」
宿直室があることは当然知ってたが、教員が泊まるのか……。
「事情聴取」
「今?」
「今もクソもお前、ルール違反してる自覚ないのか」
消灯後の部屋移動は寮の規則として禁止だ。知ってる。けど、そんなの誰が守ってるっていうんだ。一応の規則として存在してるだけだろ。違反行為だとわかってるから事故やトラブルがないよう、そこはみんな慎重に行動してる。だから学校側だって黙認してんだろ。点呼とかないのって、一番館と二番館が自由に行き来できるのってそういうことだろ? ある程度のストレスの発散としての自由があって(セックスがどうこうじゃなくて。それも含まれるのかもしれないが)、そこは生徒側だって甘受するだけでなくて過度にはみ出さないようにしてる。上手くバランスが取れてる。
「……ありますけど」
「じゃあ来い」
違反行為が見つかったという点じゃ初犯だろ、見逃せよ。とは思うものの、逃げたくても逃げられるはずもない状況で、大人しく樫木の後をついて歩くしかなかった。でも普通、こんな時間こんなとこに立ってるか? 宿直とはいえ。生徒の監視のためとはいえ。
一階の廊下に煌々と明かりが射しているところがある。ドアが開けっぱなしなのだ。前を歩く樫木は迷うことなくそのドアをくぐる。
「狭いが仕方ないな、茶ぐらい出してやるから座れ」
俺が部屋の中に入るとドアの鍵をかけて。あまりいい気はしないが、俺がどうこう言える立場でもないし、防犯上やらなんやらで鍵をかけることは悪いことではない。
部屋に入ると狭いながらも小型のテレビと冷蔵庫、一人用のガラステーブルに二人掛けのソファ、ベッドが置いてある。奥の扉はバストイレか。ちゃんと揃ってる。
座れというのでソファに座ると、テーブルの上にあった電気ポットからいつの間にか手にしていたマグカップに湯を注いで俺の前に置いてくれた。
「コーヒー、ブラック飲めるか?」
「はい……ありがとうございます」
本当はとっととシャワーを浴びたい。石井さんが一応は、引っ叩かれる前だったから綺麗に身体を拭いてはくれたのだけども。
「さて」
事情聴取とやらが始まるのだろう。どう言い訳すべきか。テーブルに解答が載ってるわけじゃないが、視線がそこへ落ちる。
樫木は自分の分のマグカップを手に俺の隣に座った。二者面談で教師と対面で座ることがあっても、この位置はそうそうない。ので、なんとなく落ち着かない。
「その頬はどうした」
訊かれても答えられるか。守ってもらいたくないので断ったら叩かれました、なんて。
「石井に殴られたのか?」
え?
「抱かせてやったのに頬を張られたんじゃ割が合わんよな」
は? こいつ。
「どうした? 黙ってると認めることになるぞ?」
認めるも何も。全部正しいじゃないか。何で知ってるんだ。かと言って口を開けば洗いざらい吐かされる。黙るしかないだろ。
「石井が自慢げに仲間に言いふらしてるぞ、多田歩とやってるってな。仲間内だけで他には広まってないようだが、プライドが高くて善がり声を出さない姫だってな」
なんてこった。あのセンパイ、そういう奴だったのか。普通の、お勉強ができるお行儀のいいお坊ちゃんかと思ってたからずるずるとやってたのに。こういうのはひっそりとやるもんだろ。石井サンの仲間って誰だよ、樫木もその仲間なのか? まてまて、わけわかんねえんだが。
「俺は別に石井と懇意じゃないぞ。そういうのは自然に耳に入ってくるもんだ」
入ってくるかよ、そんなの。こいつ、なんなんだ。
「で、俺はどうなるんですかね。退学とか停学とかですか」
寮の規則を破って退学になったとか聞いたことないが。学校の校則違反もしかりだ。校則も案外ゆるくて、みんな適当に真面目にやってる感じなのだ。破りに破ったって自分のこの先を考えればマイナスにしかならない。そんな無駄なことをやるのは馬鹿だ、そんな論理。
「石井とは終わったのか?」
「はい?」
「セフレ解消か?」
「ええ、まあ……」
ここまでわかってるんじゃ嘘を吐く理由もない。石井さんを庇う理由もない。
「よし、じゃあ氷をやるから顔を冷やせ。帰っていいぞ」
樫木は冷凍室を開けて、俺に持たせたビニール袋(何でもあるんだな、ここ)にいくつか氷を入れてくれた。
「……ありがとうございます」
氷を持たせてくれるほどにまだ頬は赤いのだろうか。確かにまだ痛いのだが。
帰っていいというのだから帰っていいのだろう。俺は勝手にドアの鍵を開けて、ドアノブを掴んだ。
「多田」
「はい」
「お前、次を探すんじゃないぞ?」
「はい?」
「次のセフレをマッチングアプリで探すんじゃないぞ?」
「……さあ?」
なんでそんなことまで言われなきゃならない。俺の自由だろ。
「お前、一週間罰として、放課後、俺の荷物持ちな」
「は?」
「SHRが終わったら俺の荷物を社会科準備室へ運べ」
「はあ?」
「俺の机、職員室じゃなくてそっちなんだよ」
そんなことを聞いてんじゃない。
「ちゃんとやらないと寮母さんに言い付けるからな」
う……寮母さんときたか。何を言い付けるのか知らないが、あの人はみんなの人気者で、みんなあの人を心配させたくないからちゃんと最低限ルールを守ってるところもある。三十代の既婚者で優しくて美人で、怒る時はめちゃくちゃ怒るけど面白い人なのだ。俺も世話になったことがある。
「わかりました」
寮母さんのこともあるし、了承しないと帰らせてはもらえないだろう。頷くしかなかった。教室から社会科準備室までの荷物持ちなんて大したことはないと言えばそうだし。
「よし、おやすみ」
「……おやすみなさい」
宿直室を出てあらためて階段を上がる。氷を当てながら歩いたからか、少しはじんじんが取れてきたように思う。いや、冷たさに麻痺してるだけか。
次を探すなとか、言われる筋合いないだろ。外のおっさんって言ってたの聞かれたのか。
……だから内のおっさん? どういうことだ。内のおっさんって誰だよ。樫木か?
冗談にもなりゃしない。クラス担任となんかやれるか。あいつ言うだけにしたって倫理観ゼロかよ。
俺はセフレを探してるんじゃない。恋人を探してるんだ。
だけど。
まあいい、とにかくシャワー浴びたい。
と、コーヒー一口も飲まなかったなと思いだした。仕方ない。
終
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