23 Four years later 4

 好き、という言葉は、曖昧で、使い勝手のいい言葉だ。LikeなのかLoveなのか、ただ口にするだけではわからない。

 約束通り、岡本は晩飯の後俺の部屋をノックした。

「知りたいことに答えるよ」

「おう」

 あれからも、岡本が己に起こったことを正確に理解しただろう日からも、はぐれ者の集まりだった宿題部は粛々と時にわいわいと続き、三年生の一学期で解散した。進路について、志望校について真剣に家や学校で話し始めているからだ。高校受験のために塾に通うという奴もいて。岡本はやはり家とは折り合いが良くないようで、寮のある高校へ行きたいと言った。詳しく岡本の家については知らないが、お金にシビアではないらしく私立でも公立でも好きなことろへ行けと言われたらしい。寮生活もそこに含まれていて。要するに厄介払いなんだろうと思う。岡本は一言も恨みつらみを言わないが、家にいるより寮にいた方がいいと樫木に言わせるほどだし。

 俺はどこでもよかった。何か目指すものがあるわけじゃない。学校の奨学生になればまあ少々高い授業料も寮費もなんとかなるしと、岡本と同じ学校にした。つまり、樫木が社会の教鞭を執る、ここ。樫木にウチへ来いとも岡本と同じ学校にしてくれと頼まれたわけでもない。ましてや岡本に同じ高校へ行こうと誘われたわけでもなく、俺の考えだけで決めた。宿題部が解散してからはメールのやりとりだけになり、岡本は塾に通い出した。俺は岡本とその後も月二で会ってるらしい樫木ともメアドの交換をしてたので様子を聞いてみれば、恐らく余裕を持って合格できるだろうと返ってきて。俺も無事全額免除に近い奨学生となり、約半年後の春には再会を果たした。ついでに樫木とも。

 そして高校生活も三年目。岡本は優しさを残しながらも強くなった。ここで特別な何かがあったわけじゃないが、岡本はみんなに好かれる学年一の美人になった。生徒会の役員選挙に立候補して当選もする。もちろんずっと続いていた樫木のフォローも大きいのだろうと思う。でも本人の変わろうとする気持ちがあったからこそだろう。

 樫木とも岡本ともとうとう一度も同じクラスになることはなかった。だからといって岡本と会話がないとか食堂で飯を食うこともないとか一切接触がないわけではないが、付かず離れずより少し遠かったか。互いの友達も毛色が違うし、被る要素がない。俺と岡本は普通にしてれば懇意になることがなかったのだと改めて思う。

 樫木とは長めのスパンで定期的に放課後呼ばれて岡本の様子を話す感じで。俺に関しては最初に「ウチに来るとは思ってなかった。案外ロマンチストなんだな」とニヤリと笑って終わった。ガキにはガキのやり方があるんだよ。羨ましがれ。

 で、その樫木だ。

「樫木のことが好きだったんだろ?」

 俺は朝と同じことをもう一度訊いた。

「そんなことないよ。樫木さんは多田君のことが気になって仕方なかったし、僕は別に。もちろん恩人だと思ってるよ、あの環境からから抜け出せたし友達もできた。この学校に入って楽しい思いもたくさんした。お前の言う好きってさ、セックスしたいってことだろ? 樫木さんは好きだけどそういうのじゃない」

 多分、岡本はセックスにいい感情を持ててないだろう。遊びではないことを知ってしまったあの日から。好きとセックスが結びつかないだろう。お前は順番を間違えたんだよな。セックスの喜び、好きで好きでたまらない人と触れ合うことの喜びを知る前に快楽を知ってしまった。そういう遊びなのだと。でもお前が悪いわけじゃない。

 好きだからセックスする、というわけではないのかもしれない、プラトニックという言葉もあるわけだし。好きイコールセックスイコール生殖本能なのだとしたらつまらないものだ。生殖に関係のない男同士のセックスは人類滅びの階なのか進化の過程なのか、と考えるのもまたつまらないので目先のことに戻ると、セックスすることがなんなのか今となってはわからないだろう岡本に好きイコールセックスを説いても無駄だ。そうなるとLikeとLoveの違いもわかってるのだろうかと怪しくなってくる。それがあのことでわからなくなっているのか、もともと家庭環境の中でそういった感情が育つことがなかったのか。何も持ってなくて、あいつらにほんの少しの優しさを欺瞞と知らずに無意識に欲したのかもしれない。

 まあ樫木に関して言えば、多田ちゃんに持っていかれても(正確には樫木が多田ちゃんを捕まえたのだが)何かしら心が動かなかった岡本はやはり樫木に恋愛感情は持ってなかったのだろう。と推測できはしたものの、確たるものがない、言質がないのは俺的に嫌だから訊いてみた。

「樫木さんが多田君にある意味振り回されてるのを見て、好きってこういうことなのかなとは思った。多田君にイライラしてるのに樫木さんは多田君だけを見ていて」

 今それを思うのかと、やっぱりわかってなかったのかと。自分の中にはない感情なのだろう。

「まああれは樫木が多田ちゃんに言うべきことを言わなかったからな」

 思っていることを口にしなければ伝わらない。言ったところで百パーセント伝わる保証もないが。多田ちゃんは岡本の言葉を少しも理解できずに誤解した。樫木のやり方に不信感を持ってたみたいだからそうなるのも当たり前で。

 俺は。そのタイミングをはかりかねている。

「僕はね、岸たちと会うようになってから誰ともセックスしてないんだよ。それでも楽しかったし、一人じゃないって思えたし、しなくてもいいものなんだと知った」

 確かにしなくてもいい。でもそれは楽しいと並べるものではない。

 だからこいつに触れられないのだ。セックスの意味を理解してないうちに俺が抱けば、あの汚い大人たちと同じになってしまう。それでは駄目だ。俺はそうあっては駄目なのだ。俺はこいつの、一番最初の友達なのだから。

 樫木が岡本に手を出さない理由はその辺にあったのか、それともそんな邪なことを覚えないほどに、弟のように同情していたのか。あいつも今より若くて、教師であることに情熱も誇りも使命感もあっただろうしな。

「散々おじさんたちとやりまくってた僕が今更そんなこと言っても遅いし身体は手垢だらけで汚いし更生感もないけどね」

 そんなことはないと何度言っても手垢だの汚いだのと口にする。誰が知らなくても自分自身が知ってるのだと。

 確かに消せない事実ではある。でもそんなことは俺にはどうでもいいことだ。目の前に立つお前がお前であれば俺はそれでいい。

「お前がそう言うから」

 俺は。

「お前が自分は手垢まみれで汚いって言うから、俺もだれかれ構わず片っ端から寝てみたさ。これで同じだろ? 俺も汚れてるよな?」

 いつまでもそう言うから。いつまでも自分を否定し続けるから。お前の言うところまで落ちればいいのだろうと。言い逃れできないようにすればいいのだろうと。

「なんで……」

 みるみるうちに目が大きく見開かれて。こんな時まで可愛いと思うのは俺も相当いかれてるのかね。

「なんで? お前と一緒にいたいからだよ」

 ああ、言っちまった。

「そんなの、一緒にいるだろ、ずっと。樫木さんに公民館に連れてこられた時から」

 まあそうだよな。その通りだ。

「じゃあ言う。俺はお前とセックスしたい」

 俺たちは普通なら知り合えてなかった。やっぱり俺は今だってダラダラしてる方だし、岡本は誠実でみんなに優しい。自然に仲良くなりようがない。樫木がいたからだ。それは本当の友達じゃないと言ったあの時の岡本を否定したが、本音を言えば間違っていないと思う。

 友達じゃない。最初から、多分。ずっと自分に嘘をついてきた。あの時はそうするのがベストだった。岡本のために。友達となるために呼ばれたのだから。

 いつならいいのか、どうすれば岡本に触れられるのか。近くにいるのに手を伸ばせない。今日まで大事に見守って明るい光に包まれているのに、俺の一歩で壊してしまわないか、怖くもあって。いや、違うな、嫌われて離れていってしまうのが怖かった。

 でも結局我慢の限界が来て。岡本を思いやれなくて自分が楽になりたくて、もうどうにでもなれと思う自分がいて。樫木に当てられたのか。

「なんで」

 ほら、ちっとも理解してない。それとも。

「セックスしまくって汚れた身体の俺は願い下げか」

「僕のどの口がそれを言うんだよ。違う。やっぱり僕は誘わないんだって思ってた、ずっと」

 え?

「ここに入学して一年生の最初から、中断するほど授業態度が悪いとか上級生と付き合ってはすぐ別れるだとか、お前の良くない噂ばかり耳に入ってた。二年の中頃には生徒全員に手を出して、とうとう教師に手を出したらしいとか、あんなに下半身がだらしないやつが学年一位なんておかしい、先生を身体で抱き込んでるんだろうとか、もういろいろ。そんなちゃらんぽらんに誰とでも付き合うのに僕だけはそこに入ってなくて、僕が汚れてるからだと思ってた」

 その噂はあんまりだろ。誰とも付き合ってないし、その気のない奴には手を出さないし、教師となんてやるか。授業態度が悪いのは間違ってはないが別に妨害するだとか暴力的なことではなく積極的に参加してないだけだ。中断っていうのは居眠りして起こされた時くらいでそんなの俺だけじゃない。

「……セックスは友達とするもんじゃないだろ」

 セフレなんて和製英語もあるにはあるが。

「そうだね。だけど僕には親しい関係に見えた」

 お前、何言ってんだ。

「ただ寝ただけだ。みんな一度きりだ」

 セックスが目的じゃなかった。それはお前を黙らせるための手段でしかなくて。

「……じゃあ。それで今セックスしたいってどういうことだよ。僕が汚れてるから自分も汚れるっていう意味もわからないしそんなことをしなくても一緒にいることはできるだろ。友達とはしないって言ったよな? つまりもう友達じゃないってことか」

 負の感情はほとんど表に出さない奴だった。家のこともいつも淡々とした声色で話していた。一度も本気で俺に突っかかるようなことはなくて。なのに、初めて聞いたような硬い声で矢継ぎ早で。

「友達、じゃない」

 この言葉の意味をどう取るのかわからないが、本当のことだ。友達で居続けようとしただけだ。

 岡本はくすりと笑った。

「いいよ、わかった。セックスしよう……僕は人から岸が誰それと寝たらしいって聞くたびに想像した。お前はどんな風にそいつを抱いたんだろうって」

 ……何だって?

「友達は友達でなければいけないし、こんな僕とセックスしたいなんて思う人間はいないし、岸だってそうだろうと思ってた」

 岡本はシャツのボタンを外し始めて。

「でももう友達じゃなくて、汚れたもの同士、一度してやってもいいと思ってくれたのならそれでもいい」

 思わず岡本の手を握って止めた。多分初めて岡本に触れた。もっと感動的でありたかったがそんな悠長なことを言ってる状況でもなく。

「待てって。お前、自分が何を言ってるのかわかってるのか?」

 そんな理由で俺とやるのか。俺の話をちゃんと聞いてないだろ。

「わかってるよ、わかった。岸とセックスしたいと思ってたんだよ、友達なのに。やっぱり僕は頭がおかしいんだとわかった。何も変わってないんだって」

「違うだろ」

 違う、それは。そうじゃない。

「それは、俺を好きってことだろ。頭がおかしいとかそんなことじゃない」

「岸を好き……?」

 ライクじゃない方、だろう? それは。俺に触れたいと思ってくれたんだろ? セックスは遊びじゃないとわかった上で。 

「俺もそうだ。お前のことが好きで一緒にいたいから、お前と同じようにお前が考える汚れた人間になればそばにいられるお前に受け入れてもらえると思って」

「岸……?」

 伝わるだろうか。

「お前に触れたくて、全部欲しくて、でも友達でいなければいけないと我慢してきた。お前には友達が必要だったから」

 伝われ。言葉で。手を伸ばすのは簡単だが、そうじゃない。身体が先じゃ駄目だ。

「このまま終わりたくない。友達の先もあるんだよ。お前が好きだ。他の誰かじゃない、お前を抱きたい。愛しいと思ってる」

 俺は言われる通りいい加減だが、今だけは。岡本の前だけは。

「……僕を好きだと言ってくれる、の? あのおじさんたちとは違うの……?」

 急に岡本は瞳を揺らして。初めて会ったあの時のような心細そうな顔をして。

「お前はセックスはもう懲り懲りだと思ってるだろうと、あいつらと一緒にされたくなくて、いつお前に言えばいいのかわからなかった」

 俺は正直に口にする。

「……岸は一緒じゃないよ、最初から」

 岡本はぽつりと言って。

「あの人たちには快楽しか教わらなかったけど、岸は楽しいことや面白いこと、教科書に載ってないけどみんなが知ってて僕が知らないことを教えてくれた。ずっと寄り添ってくれてた。言ってなかったけど同じ高校に進学して嬉しかったよ」

 友達という傘は優しく守り上手く想いも隠して。

 そっと俺の手を握り返した。

「僕は、岸が好き……なんだね。多田君より自分をわかってなさすぎだね。何年も一緒にいたのに」

 俺を真っ直ぐ見て、小さく微笑んだ。

 多分、時間が必要だった。俺の我慢はきっと正しくて。壊れかけた岡本の心が回復しただろう今だからこそ言えた気持ちで気付けた気持ちで。

 想いの欠片が、形をつくって手のひらに落ちた。熱を持って確かにここにある。

「好きな人とのセックス、岸としたい」

 岡本の言葉は甘く沁みて。

 抱きしめる手に、もう躊躇いはなかった。


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