28 薔薇の餃子
そんなに深刻なのかと言えばそうでもないとは思うし、そう我慢するようなことでもないとも思う。
だたやっぱり、いろいろ面倒ではあるのだ。
失敗した、なんで、とは思わない。たまたまそうであったというだけで。
二週間ぶりに樫木の部屋に来た。セックスするために。セフレじゃなくて、それ以上の未満的な。
寮生活な自分の場合、寮の外で毎日セックスなんてありえないし、日帰りにしても毎週末は少々難しい。泊まりなんて以ての外だ。実家や部活の遠征は寮に外泊届を出せばいつでも外泊はできるが、友達などそれ以外はチェックが厳しくて難しい。ましてや俺の場合は。そうなると思いっ切り寮則を破っての無許可の外泊ということになり。それもどうかと思うし。以前やったがあまりやるものじゃない。
毎週末のセフレだった石井さんとのセックスからすれば慎ましくなったもんだ。一つ学年が上であっても、いくら部屋に朝帰りしても、所詮寮の敷地内だったから簡単だったのだ。消灯後の部屋移動はもちろん寮の規則で禁止だがまあそりゃみんな守ったり守らなかったりで。集まってゲームで徹夜したり恋人とかセフレとナニしたりと。トラブルにならないよう、ちゃんと慎重に。
月イチで宿直があるらしい樫木が寮の宿直室なんてものもあるぞと本気なのか冗談なのかわからないトーンで言うが冗談じゃない。深夜に宿直室を出入りする生徒なんて絶対いないし、見られたら俺も樫木も終わりだ。
毎日、会うには会ってるのだ。クラスの担任だから。そして用を言い付けられ樫木の机がある、鍵のかかる社会科準備室へ引っ張り込まれた日には適当なスキンシップがあったりする。それも俺からすれば気が気でないのだ。勘弁してほしい。キスひとつで済めばいいがそうではないから。
要するにどこをどう取ってもアウトなのだ。俺と樫木は。教師と生徒がセックスしてるなんて。しかも樫木の部屋に行ったとしても学校が用意した独身者用住宅で。今日だって、ここへ来るのに寮の前に車を止めることはできないからと寮を少し出たところで車で拾ってもらい、着けば着いたで集合ポスト前に停めた車から部屋の鍵を持った俺がダッシュで出てまず部屋に入る。誰にも見られないように。
それでも。
樫木は真面目に気持ちを吐露してくれて、俺は嫌じゃなかった。その嫌じゃなかったっていうのが俺のズルいところで、ちゃんと言葉という形にできないまま樫木と寝て。
セフレじゃない。これははっきり言える。樫木の腕の中はあたたかくて心地良い。楽に背中を預けられる。そんな曖昧なままでもいいと樫木が言ったから。
学校が休みな土曜日の今日、寮で朝飯を食って十時頃に樫木に拾ってもらって、二週間ぶりに突っ込まれ。事後、身体を綺麗にしてもらい悪くない疲労感に満たされてうとうととベッドの上で眠りの国に落ちかけていると、油と皮の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。ワンルームだとベッドからキッチンは目と鼻の先だ。
餃子か……この匂い。餡から作ったのだろうか。この間のカレーも美味かったし。家の餃子は専門店から生を買ってるな。餃子は餃子屋に限るとか母親が言ってたっけ。美味そうな匂いだけど眠気には勝てそうにない……。
「多田、腹減っただろ。もう少しで焼き上がるからな」
目を閉じた向こうで樫木の声がする。嵐のような樫木に俺は流されっぱなしで疲れるのだ、いつも。諦めのような「嫌じゃない」ではあるが、結局それを肯定的に受け入れてはいる。俺もいちいち言い訳が多いな。
「先生……俺眠いか」
「岡本が来るからな、早くシャワー浴びとけよ?」
は?
眠気が一気に吹っ飛んだ。岡本さんが来る!?
「え……」
布団の中でぐずぐずとしていた身は簡単に起きた。驚きで。
「食い切れないかもしれないと思ってな、あいつに連絡してみたんだよ」
コンロに向かっている樫木ののんびりとした声が背中越しに聞こえる。
あ?
ここに? 今から? 俺素っ裸なのに?
「いつ来るんですか」
「三十分後ぐらいか」
はあ? またシャワーをろくに浴びれないのかよ。
「まあ岡本だし、そのままでもいいだろ」
「んなわけあるかよ!」
素っ裸なんて岡本さんに失礼だし、事後のまま出迎えるとか非常識だ。誰がそんなもん見たがるんだよ。
急いでベッドを出ると浴室へ駆け込む。ちらりと視界に入った後ろ姿の樫木は右手にフライ返し持って鼻歌を歌ってて。
今、岡本さんが来る必要があるのか? 残ったのは後でも明日でもいいんじゃないのか。
と憤る暇もなく、俺は急いで湯を出した。
どうにか服を着て、何事もなかったかのような顔になったその時にドアチャイムが鳴った。
「こんにちは」
ガチャリとドアが開いて。
当然現れたのは三年生の岡本さん。樫木とこうなる手助けをした人だ。俺のではなく樫木の。この人は樫木の仲間だ。岡本さんが中学生の頃から繋がりがあって親しい間柄らしい。俺と樫木の経緯を樫木から聞いて大体知ってるだろう人で、俺の無断外泊をフォローしてくれた人。
でも……あれ?
「おう、あがれ」
樫木はまだコンロでフライ返しを持ったままで。
えーと岡本さん、さらっと来たんですが。俺が面倒だと感じてるステルスゲームばりのお忍び感もなくあっさり。歩いてきたのかタクシーで来たのかわからないが、樫木が迎えに行くこともなく。俺だけああなのかと釈然としなくて。
「急に呼んで悪かったな」
「いえいえ。美味しいものが食べられるなんてありがたくて」
そんな言葉を樫木と交わした岡本さんは俺が少々畏まって座っているガラスのローテーブルまで歩いてきた。
「多田君こんにちは。今日はお招きありがとう」
「いえ……」
俺が呼んだわけじゃないし。
「お邪魔だとはわかってるんだけど餃子につられてきちゃったよ、ごめんね」
お邪魔……いや、そんなことは。俺、餃子ってことも知らなかったし。
「食い切れないかもって言ってたし、いいんじゃないですかね」
俺が餃子を作ったわけでも俺の家でもない。決めるのは樫木だ。そういうことだろう。
「……多田君の髪は今日も生乾きだね」
「そうですね」
来るなんて知らなかったし!
この人もどうしてほいほい来るんだよ。きっと樫木は俺が部屋にいることを言っただろうに。本当は岡本さんは樫木のことが好きなんじゃないのかよ。……だからか? 少しでも近くにいたいとかそういう?
「餃子貰ったらすぐ帰るから怒らないで」
「え、いや、怒ってるわけでは」
「おーい焼き上がったぞ、お前ら皿取りに来い」
タイミングが良いのか悪いのかのんきな樫木に遮られ、餃子を食べる会が始まることになった。
で。
テーブルに並んだのは本当に餃子しかなくて。ご飯もスープもなく、餃子だけ。肉と野菜と小麦でできてるから完結していると言えばそうなのかもしれないが。
そしてその餃子というのが。
「シュウマイ?」
と溢すほどに形が俺の知っている餃子とは違って。
「へえ、圧巻ですね。これ何個あるんですか?」
岡本さんは俺の疑問をスルーするかのように樫木に訊いた。
「百個だ」
は? ひゃ……っこ? 確かに多い。餃子しかテーブルに乗らないし、二人じゃ食い切れないと言うわけだ。
「これね、焼売じゃなくてバラの花の形をした餃子なんだよ」
結局持ち帰ることなく岡本さんも食べていくことになり、三人でいただきますをして。せっかく来たのだから食べていけばいいし、さっきの流れだと俺がゴネて岡本さんを帰したようになってしまう。早く帰れだとかそんなことは思ってない。
大皿三枚に分けて乗っている餃子?をひとつ取り皿に取った岡本さんが俺を見る。
バラ……? ああ……言われてみれば、バラの咲きかけのような形だ。幾重にも皮が巻かれていて。樫木って器用なんだな。バラの餃子なんて見たことない。
「一個あたり普通の餃子三個分ぐらいあるんですか?」
「そうだな、皮は三枚使ってるし餡も一個分よりは多いな」
三個分の皮。だからひとつが大きいのか。それの百個って、皮が三百枚ってことか。餡も百個分以上。そんなのいつ作ったんだよ。百個も食わねえだろ、いくらなんでも。
「すごいよね、多田君」
「あ、ええ」
よほどの餃子好きなのだろうか。肉とキャベツとシソが入ってると言った手作り餃子は文句なく美味くて。
「僕は十個でお腹一杯だよ、皮が結構腹に溜まる」
餃子十個でも実はそれ以上のボリュームならあまり食べない人ならそんなものかもしれない。とにかく一個がでかいし。
三人でほぼ黙々と餃子を食べて。この面子で話すことなんてなくて。俺以外の二人は話すことがあるのかもしれないが俺は岡本さんに振れる話題もないし、そこまで親しいとも思ってないし。迷惑ばかりかけてるし。そもそもが俺は生徒会役員なんて人と接点があるような人間じゃないし、岡本さんの可愛くてキラキラしているようなキャラクターの友達もいない。桜野が近いがあいつはちょっと不気味だ。
「岸にも持っていくか? パックならあるぞ」
岡本さんの腐れ縁(と岡本さんが言ってた)で樫木とは岡本さん同様中学生の頃から知り合いらしい三年の岸さん。この人にも何かと世話になってしまった。世話になりたかったわけじゃないけど結果的に。
「多田君が良ければ」
俺? なんで。俺が作ったわけじゃないのに。一緒に作ったと思われてるのだろうか。
「や、作ったのは先生ですし俺はなんとも」
「幸せのお裾分けってことで岸の分もいただいてそろそろ帰ります」
幸せ? 大袈裟な。まあ……美味い飯は幸せでもあるか。幸せに大小はないしな。
「じゃ待ってろ、詰めてくるから」
樫木は十個ほど残っている皿を手に取るとキッチンへ歩いていった。
「岸にも声かけたんだけど疲れてるから寝るって言ってさ。樫木さんの隣に座る多田君を見れなくて残念だって」
なんだあの人。ニヤニヤした顔が簡単に想像つくな。来れない理由があってよかった。三対一のアウェイ感なんてごめんだ。
……あ、まあ……うん、そう。
「今度岡本さんと岸さんにはご飯奢らせてください」
「うん? 急に?」
まだ世話になった(しつこいようだがなりたくはなかったが結果として)お礼をしていない。
「後輩に奢らせるなんてできないよ。そう思ってくれるのは嬉しいけど僕のは執行部役員で方がついてるし、岸は別にいいんじゃない? 餃子貰うしこれでいいと思うよ」
そんな雑な。
「それよりね」
「はい」
岡本さんは急に声を落とした。
「多田君はちゃんと言えたの?」
「何をです?」
だから俺も声をひそめて。樫木に聞かれたくないのだろう。
「樫木さんに好きって」
「え……」
なんでそんな話を今ここで。っていうよりなぜ岡本さんと。
「樫木さんは言ったんじゃないの?」
「え、ええまあ……」
「嫌いなの?」
「そんなことは……」
「何で言わないの?」
「それは……」
それは。質問攻めに答えられないでいると。
「箸とタレもつけとくからな。多めに入れといたから一緒に食え」
樫木が餃子のパックが入っているのだろう小さめの紙袋を持ってこっちへ戻ってきた。
「多田君は今日何を食べたんだろうね?」
そう俺に耳打ちして岡本さんは立ち上がった。
「ありがとうございます。樫木さんの手料理、岸も喜びます」
「おう、食いたきゃいつでも来い」
「その時はちゃんと事前に予約しますね。じゃあ帰ります。ごちそうさまでした」
と俺をちらりと見た。いや、そういう気遣いみたいなのは必要ないんで。来たい時に来てください。俺関係ないんで。
「気を付けて帰れよ。何かあったら連絡しろ」
狭い玄関で樫木に見送られ、岡本さんは帰っていった。
しかし、何を食べたかって、餃子だけど。他には何もなかっただろ。謎かけみたいなあれは何なんだよ。変わってたのはバラの形だったってことで。どう考えても百個なんて食い切れないほどの数で。仮に岸さんが来て四人だとしても無理だろ。
「腹一杯になったか?」
樫木は岡本さんの皿とコップを手に取った。なったからもう食べないと言えばテーブルの上を片付けるのだろう。
「はい、美味かったです」
そうなると俺も座ってるわけにはいかない。客じゃないのだ、手伝わないと。餃子の乗ってた皿と取り皿と箸とコップしかないからすぐに片付くが。せめて食わせてもらった分皿洗いをしたいところだが樫木がさせてくれない。案外潔癖性で俺に皿を洗われるのが嫌だとかあるのかもしれない。だから今もシンク前で追い払われてテーブルに戻ってきた。
「ローズの日っていうのがあるらしくてな」
することがなくて持ってきた単語帳を開いていると、皿をスポンジで洗っているらしい音をさせながら樫木が背中を向けたまま言う。
ローズ……バラ?
「それで今日の餃子はバラの形にしてみた」
「なるほど。手の込んだ料理もするんすね」
また百個なんていう誰得かわからないチャレンジまでする。必要だからやってるってだけじゃなくて料理が好きなのかもしれない。
「バラの花でもよかったんだがお前、そんなの貰っても困るだろ?」
へ? 花? 俺に?
「まあ特に好きというわけでもないですが、花貰って嬉しくない人はいないんじゃないですかね」
どこに飾るかとか世話はどうするんだとかは一応横へ置いて。バラはゴージャスなイメージがあるし。
「百本は無理だろ」
え? 百本? バラを? だから餃子? え?
岡本さんに言われた言葉がふっと湧いて。俺が食べたのって、百本のバラってこと?
いやいや待て。百本のバラが何だって言うんだ。樫木は世間話のように言ったが……何かあるのか?
鞄からスマホを取り出して検索サイトに入力してみれば、それはもうずらりと結果が出てきて。検索結果のページだけで、サイトまで行かずともわかってしまった意味。
これ、本当にそうなのか? その意味の真偽ではなく、樫木がそういう意味を持たせていたのかと。餃子だぞ。ムードも何もあったもんじゃない。でも百個の意味を考えれば。
「まあただの遊びだ。深く考えるな」
蛇口をひねる音がして水が止まり、樫木が戻ってきた。スマホを手にじっと固まっていれば俺が何をしていたのかわかったのだろう。
遊びにしたって酷い労力だ。時間も手間もかかっている。
「……それでも嫌な気はしませんよ」
そんな感想ぐらい言ったっていいだろ。
「お礼、いります?」
上から目線で自惚れてもいいだろ。
そばに立つ樫木のタンガリーシャツの裾を引っ張って目線を同じにして、軽く唇を重ねた。
「機嫌は直ったのか?」
……別に悪かったわけでは。ただ。
「岡本が来たことに怒ってたんだろう?」
俺が逢瀬を邪魔されて怒り心頭だったのだろうと言わんばかりで。
「……そうじゃなくて、もう少し前に言っておいてくれれば」
岡本さんが来たことを怒ってるわけでは……いや、俺は。岡本さんも樫木の大事な教え子なんだろう、でも。……いや? も? でも?
自分たち以外の人間が入ってくるなんて思ってなかった空間に人が入ってくることを嫌悪だと感じたのは俺だ。言い訳の深度が増して、気持ちが、足元が、少しずつ溶けていってるのかもしれない。
が、やっぱりまだ口にはできない気がする。
「それはすまなかった。こんなネタ餃子、明日まで置いとくのも興冷めだろうと急に思いついてな」
俺を蔑ろにしたわけではないとは思ってる。さっきから自惚れ気味だが。やった直後の部屋に人を呼ぶかって話で。それでも餃子は岡本さんに焼いたわけじゃない。むしろ岡本さん(と岸さん)に見られても構わない見せたかった、のかもしれないと。
……ごちゃごちゃと煩いな、俺。気恥ずかしく嬉しいのなら身体で伝えればいい。
もう一度樫木の唇に己のを軽く重ねて。
「お前からのキスは貴重だな。おかわりしていいのならもっと欲しいものだが」
俺の顔を覗き込む樫木の目が嬉しそうに見えたから今度は深く口付けた。俺を尊重してるのか、試されているのか、樫木は受け入れるだけで。
俺だってとうにセックスの味は知っていて初心な何も知らないガキじゃないが、自分から仕掛けたキスに相手よりも先に興奮してくるのはやっぱりガキだ。
余裕をかましている樫木を追い詰めたくて唇を塞いだまま手探りで樫木のジーンズのボタンを外し、ジッパーを下ろした。下着の中はまだゆるゆると緊張感もなく。このままだと俺が先に達きそうだと思いながらもキスをやめて、這いつくばるようにして屹立していない樫木のペニスを口に含んだ。
「おい、ちょっと待て」
慌てた声で俺の髪に触れる。手でシコると思っていたのだろうか。
「お前石井にだってしたことないだろう、無理するな」
……なんで石井さんの名前をここで出すのかだとかなんでそんなことを知ってるんだとか。言いたいことはあったが、無視して口を動かした。俺の唇が上下に往復するたびに硬くなっていくのが楽しくて夢中で扱く。硬くになるにつれ張ってきた裏筋に舌を這わせて舐め上げると樫木は小さく呻いた。よしよし良い感じだろ。赤い亀頭の割れ目からは透明な雫がぷつりと湧いて。どんな味がするのかと舌を差し込もうとした時。
「もういい、石井がさせなかった気持ちがわかる。お前はベッドで乱れるのが一番いい。お前の背中は憐憫がすぎる」
そう言って樫木は俺を抱え上げた。予想外の行動に意固地になる暇もなく俺は樫木の竿から離れてしまって。
「多田、俺に抱かせてくれ」
そのままテーブルのそばにあるベッドに引っ張り上げられるとすぐさま身ぐるみ剥がされた。ちょ、俺のイニシアチブはどこへ行ったんだよ! しかも背中が憐憫ってどういうことだよ。
そんな抗議をしようにも樫木は無言で俺の両足を抱え上げて尻をぐいと押し開き。
「ふぁ……っ」
自分でも聞いたことがない声が口から出て。知らない感覚、いや、知ってる行為のはずなのに快感が今までと違うもので。
「ふぅ……んん……ぁ……」
指よりずっと滑らかに柔らかに動く舌は自在に尻の窄みを犯し、その快楽に呼応するように勝手に腰が揺れる。
「餃子より美味いよ、お前の」
「ばっ、な、にい……っ……んぅ……」
執拗にそこばかりを責められると何かが限界に達し、今度はもどかしさが身体を回る。
「いや、だ……もう……」
これだけじゃ物足りなくて。もっと欲しくて。中に欲しくて。樫木という人間で満たされたくて。
「挿れてもいいか?」
早く欲しくて、言葉もなく即物的にこくりと頷いた。
きっとこれまでの中で一番物欲しそうな顔をしていたに違いない。
コトが済んで寮へ帰らなければならない時間が迫る中、隣に樫木もいて。背中に体温を感じながら帰り支度を始める時間を逆算していると思い出したことがあった。
「岡本さんは玄関から歩いて帰りましたが、行きも歩いてきましたよね?」
「……どういう意味だ?」
微睡んでいたのか間延びした声が返ってきた。
「ああ……自分だけコソコソ出入りしてるって言いたいのか」
「はい」
今更まわりくどく言う必要もないだろう。
「岡本は事情があってこの教職員住宅は顔パスで入れるんだよ。俺の部屋で預かれるように上に掛け合って」
前に岡本さんが話してくれたことに関係してるのだろう。俺が聞いたのは少しだけど衝撃的な話だった。
「だから」
だから?
「引っ越すことにした」
へ?
「ここは安く借りられる代わりに寮の宿直が必須でな、それはそれで当然としてもここだと何かと目があって面倒だろ」
それはひょっとして俺とのこともあって?
「前から考えてたことでお前だけが理由じゃない、と言えば気が楽になるか?」
安い家賃に越したことはないだろう。ウチの学校の給料が薄給かどうかも知らない。社会人である樫木の生活に口を挟む権利は未成年の俺にはない。
「……俺は何も言えませんよ」
「物件はゆっくり探すからいつになるかわからないが、見つかったらお前に言うよ」
他人の話程度に聞いておこう。その頃に俺は樫木と一緒にいるかわからない。悲観的というわけではなく、その先は本当にわからないから。
「楽しみに待っててくれ、歩」
!
「……」
その響きに体があたたかくなって。官能を揺さぶられたのではなく、心が。
「そう呼んでもいいか?」
ぎゅっと腰に回った腕に力がこもり、さらに密着した樫木の左側にとくんと心臓の音がした。
それは早鐘のようではなくおそらくいつもと同じ速さで。特別ではない樫木の普通の中に俺を入れてくれているのだと。
「はい」
どれだけ顔がゆるんでいるのか自分でもわからないから、樫木にも見せてやらないことにした。
終
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