40 夏の話 11

 残された俺と樫木は。残されたというか俺の部屋だけども。

「お疲れ様、です」

 何を言っていいかわからない。樫木の顔を真っすぐ見れない。だってこいつは。

「入ってもいいか?」

 いくら人がいないとはいえ、いつまでも戸口に立たせておくわけにはいかないだろう。入れば出て行くのも少々苦労しそうだが。ってやっぱ教師が生徒の部屋に来るのはアウトなのだろうか。そんなの寮則に書いてあったっけか。

「どうぞ」

 樫木はどかどかと遠慮も何もなく入ってきて、椅子に座る俺の前に立った。まあ、随分前だとしても古巣だろうから勝手知ったるってやつだ。

「お前、実家に帰ったんじゃなかったのか」

「帰りましたよ」

 挨拶もなくいきなりかよ。怒りを抑えたような声色だが、それは俺の自由だし、帰ったし。ここにいることを責められるいわれはない。

「じゃあなんでここにいるんだ」

「そりゃ戻ってきたから」

「見ればわかる。理由を訊いてる」

 尋問かよ。

「家にいたくなかったからです」

 ここで引いたら負けだろ。強面で迫ったからってしおらしくなると思うなよ。

「どうして」

「一人になりたかったから」

「家で何かあったのか」

「何も」

「じゃあどうして」

「別に」

「別にってなんだよ」

「俺が答える必要あります?」

 いい加減しつこいな。

「俺が知りたいんだよ。何かあったんなら話せ」

「……」

 あんたも俺に言うことがあるだろ。

「それで北見なのか」

「それでって何だよ」

「一人になりたい理由が北見か」

「北見は心配して来てくれただけです」

「心配? どういうことだ」

「俺が電話したから」

「来いってか」

「言うかよ、そんなこと」

「北見と寝たのか」

 ……呆れた。

「あんた頭にそれしかないのか。飯食ってたの見ただろ」

「北見と抱き合ってたんだろ?」

 ああそうだよな。岸さん、樫木にチクったんだよな。じゃないと樫木はここにいない。浮気現場、なんてそのまま言ったんだろうな……。あの人誰の味方なんだよ。ま、樫木だよな。

 ハグされてただけで、俺はしてない。だがそれをいちいち言うのも面倒だ。誤解してもしなくてももういい。

「だったら何なんだよ。あんたは橋口さんがいいんだよな。あっちへ帰れよ」

 俺だけが責められるのかよ。何も見てないくせに。何も知らないくせに。俺がどう思ってるかなんて。

「夏乃……?」

 樫木の眉間に寄っていたシワが緩んだ。

「橋口さんみたいに覚悟なんてない。だから納得した。感謝してるから、もういい」

「何言ってるんだ、夏乃みたいな覚悟って何だよ、夏乃に何か言われたのか? いや、お前夏乃と会ったのか」

「もうどうだっていいだろ」

「いいわけあるか。何で勝手に会うんだ」

「勝手に、って誰に会おうが俺の自由だろ。何で許可がいるんだよ。別にあんたからとりゃしねえよ」

「お前本当に何を吹き込まれたんだ。夏乃とは切れてるって言っただろ」

「橋口さんとも寝て俺とも寝て別の夜は知らない奴と寝るんだろ? 俺は何番目?」

「な……に言っ、て」

 樫木の言葉が初めて詰まった。まさに虚をつかれた顔。きっと俺が言わなきゃ黙ってたんだろうな。

「俺はその輪の中から抜けさせてもらうわ。橋口さんはそれでもいいらしいけど俺は無理だから」

「歩」

「怒ってない。そういうことは最初に言ってほしかったけど今となってはもういいし。どうぞ先生、お帰りはあちらですので」

 俺は部屋のドアを開けに行くために椅子から立ち上がった。

「待て歩、違う。俺の話を聞けって」

「橋口さんと寝たんだろ? 違わないだろ!」

 寝たことを責めてるわけじゃない。寝たんなら俺との関係はもう終わりだというだけだ。

 それでも俺の足はドアへ向かうことなく止まってしまって。

「確かに寝た。でもそれは最後に一度だけって言うから」

 ほら。本当だったんだ。橋口さんの嘘かとも思ったが。

 最後に一度だけ、ってどういうことだよ。そのまま聞けば今回限りってことだが、そんなの信じられるか。大体、切れた人間ともう一度寝るって。こいつやっぱり一人と付き合えないタチなのか。

「一度でも二度でも一緒だろ。やったことにかわりない。お願いされれば誰とでもやるのかよ」

 いや、こんなことが言いたいわけじゃない。違う、そうじゃなくて。終わるのなら静かに綺麗に終わりたいのに。

「お前だってそうだろ」

 はあ!? なんだそれ。 

「あんたと付き合う前のことだろ! 今関係ねぇじゃん。最後なんて言わずに橋口さんのとこ行けばいいだろ。あの人はあんたのこと狙ってたぞ。俺に手を引けって言ったしな!」

 樫木の話をしてる。俺は関係ない。何馬鹿なこと言ってんだ。

「それはない。あいつと俺はもう終わってるって言ったろ」

 どうせなし崩しに続いていくんだろ。俺は橋口さんみたいに心が広くない。最後に戻ってくればなんて。それが俺なのかどうかもわからないし。

 結局、樫木の幸せどうこう言っても、俺が嫌なだけで。博愛主義者よろしくあっちもこっちもいただきますなんて御免だ。樫木とセフレのような付き合いはしたくない。橋口さんみたいにはなれない。

「お前はクールだしそういうの気にしないだろ」

「そういうのって何だよ」

「俺が誰と寝ても」

 おい。

「何決めつけてんだ。好きな奴が誰かと寝たって聞いてなんとも思わない奴なんかいるかよ!」

「お前……」

「あの人があんたを幸せにするっていうんならそれでいいと思ったよ。俺じゃダメなんだろうから。俺は鈍くて、遅くて、覚悟もない。もういい」

「何がもういいんだ。覚悟ってなんだよさっきから」

「俺はガキだからあんたの人生を背負い切れない」

「何の話だ」

「橋口さんのこと嫌いじゃないだろ。だからもういいって」

 もういいって何回言わせるんだよ。早く出て行け。

「は? 待て歩、お前ちょっと落ち着け。俺の話、わかってるか?」

「俺は落ち着いてるよ、あんたの話なんてどうでもいい。もう終わったんだから」

「終わってねえ、俺がなんでここに飛んで来たと思ってる」

「知るかよ」

 北見と一緒にいるのが気に入らないんだろうけど、樫木の都合よくいくか。

「北見に嫉妬したんだよ。俺のものに手を出すなって思ったんだよ」

「北見はそんなんじゃない」

 まだ言うか。

「歩、事実はどうあれ、俺はお前と北見が一緒にいるのは嫌なんだよ。あいつはいい男だ。お前をかっさらわれそうで不安なんだよ」

 不安って……。なんて顔すんだよ。北見なんてあんたからしたら子供だろ。十も違う。それに北見は俺のことは親友だと思ってくれてる。かっさらうとかないだろ。

「お前に告白してから抱いたのはお前だけだ。一夜の相手なんかいない。高校時代は夏乃を抱けない日は外でヤリモク相手を探してた。誰かと身体を繋いでいたかったんだよ。今は違う。夏乃の件は俺が悪かったかもしれない。でも本当に終わってるんだよ。当時の俺は夏乃に縋るだけ縋ってただただ重い奴だった。申し訳ない気持ちもあってこれでちゃんと気持ちの整理が付くと思ったんだよ、俺も夏乃も。夏乃が引きずってたとは知らなかったし。逃げたと言ってたがあれで正解だったんだ」

 ……。

 橋口さんが言った通り樫木はやりまくってたんだな。恋人だと言って都合よく利用してたわけじゃなくて本当に好きだったんだろうけどあまりにも勝手だ。俺だってそんな奴は好きだとしても離れる。……現に今がそうだ。だから橋口さんは十年も燻り続けたのかもしれない。嫌いになったわけではなかっただろうから。

 最後にもう一度、というのもわからないこともない。橋口さんの想いは樫木の言葉だけでは昇華しなかったのだろう。でも、

「でもその後あの人は俺に手を引けって」

「俺たちを心配したのかもしれない。お前を試したんだろ」

 いや、違うだろ……あんな意地悪、心配してる人間が言うか?

「ちゃんと夏乃も納得した上で終わった。ヨリを戻す気はないと言ってある」

 納得はしたものの未練たらたらじゃないのか。あわよくば、俺が樫木から離れればいいと思ってるんだろ。本当に心配してくれてるのなら申し訳ないが。

「歩、俺はお前を愛してる」

 ちょ……ま。

 どさくさに紛れてな、何を。あ、あいし……って……。

 不意打ちに顔が熱くなって、どくどくと心臓が音を立てる。

 落ち着かなくて、くらくらして。

 ずるくないか? いきなり、突然、今。

「夏乃でも他の奴でもない。心を繋いで抱きたいと思うのはお前だけだ」

 だけど真っすぐに俺を見る樫木の目は切羽詰まっていて、返事を促されているようで、肯定してほしいと叫んでいて。

 ……。

 不思議と心が凪いだ。

「わかった」

 俺はその言葉が欲しかったのか。

「俺も先生のこと」

「いいんだ、無理するな。お前はこのままでいい」

 受け入れるだけでいい、樫木はそんな顔をしたけど。

「いや、ちゃんと言える」

 聞きたいはずだ。樫木はずっと待ってる。

「俺は先生のことが好きだ」

 俺の中で形になって言葉にできるほどに確かにあって。責め立てて駄々をこねるよりも樫木を優先して身を引くことに仕方ないと思えるほどに、好きという感情は確固としてある。曖昧だったものが輪郭を持って。少し空いた距離に心が痛むほどに。

 岸さんでもない、北見でもない。抱きしめてほしいのは樫木だ。

 だらだらと寄りかかってばかりではいけないと、対等でありたいと思って。

「だから、俺だけにして」

 少女漫画の台詞のようで気恥ずかしくて、消え入るような声になった。でも言葉にしないと伝わらない。

 樫木のスーツの袖先を指でつまんで小さく引っ張ると樫木は俺を抱きしめてくれた。

「歩、ありがとう」

 耳元で囁かれた声に胸があたたかくなって。

 俺は両腕を樫木の背中に回して、初めて樫木を抱きしめた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る