46 一月二日 多田と樫木 2

 クリスマスイブに渡された樫木の新居の合鍵。教職員住宅を出て新しく部屋を借りたからと。いつでも好きな時に来ればいいと言ってくれた、心の扉の鍵。

 まさか樫木との関係を確認するために、俺は捨てられたのか確認するために使うことになろうとは。二日に出かけると言って部屋にいない場合、俺と樫木の関係は終わったのだろう。もしくは樫木以外の靴が玄関にあった場合。

 過度な期待はしない。もし俺の考える最悪であっても仕方ない、誰もが心は自由だから。どんなに理不尽だと感じてもそれが素直な気持ちなのだから無理に留めることはしない。

 そう思って鍵を挿して。

 鍵はすんなり入ってがちゃりと回って。やっぱり樫木はいないのか。玄関の鍵をかけないことが良いわけではない。それは不用心というものだ。でもそれは不在ということではないのか。俺との約束はスルーという形で反故でドタキャンで。

 好きな時に来ていいと言われたものの、樫木がいない時に部屋の中へ入るのは泥棒のようで躊躇しかない。でもこのまま不確かなまま帰ってずっともやもやしているのも嫌だ。

 腹を決めてドアを開けて玄関の中へ入る。

 靴は一足で。投げ捨てられたように転がっている樫木のスニーカーがあるだけだった。生活音もしない。静まり返っている。

 いない……か?

 インターホンを押さずに鍵を開けて勝手に入った。だから樫木は俺がここにいることに気付いてないのか、やっぱりいなくて違う靴で出かけているのか。

 これ以上中へ、部屋の中へ入っていいものか再び葛藤するもここでもう一度電話を掛けてみるという悪あがきを思いつき。 

 履歴から電話を掛けると少しも待つことなく部屋の中からバイブレーションの振動が聞こえてきた。

 が、いつまでも震えるだけで電話を取る様子がない。 

 電話を置いて行ったか、もしくは……。いや、もしくは?

 ぞくりと違う不安に駆られる。まさか、倒れてる?

 慌てて靴を脱ぎ散らし部屋の中へ入った。廊下の先はリビングでテレビとガラステーブルが置いてある。これまで見たことのある樫木の持ち物だが肝心の樫木がいない。

 スマホのバイブレーションは今もまだ続いていて、それはどうもリビングの横の部屋から聞こえる。初めて入った部屋で、間取りも何もわからない。そっちが寝室なのかと飛び込むとベッドがあって、こんもりと布団が盛り上がっていた。明らかに誰かが寝ている体だ。でも動く様子はない。

「せっ、先生」

 ブブブと鳴る振動を止め、ベッドに近付いて深く被っている布団を思いっきり剝ぐ。

 いた。目を閉じて真っ赤な顔の樫木が。ちゃんと呼吸している。

「先生! おいっ」

 強引に肩をゆすり起こす、起きてくれ。

「………ぅ……ん……?」

 けだるそうに瞼が開き、呻くような声で。

 樫木の額に手のひらを置くと見た目の通り熱かった。発熱だ。

「……あゆむ?」

 ぼんやりとした声が俺の名を呼ぶ。しゃべれないということはないらしいし俺のことはわかってる。

「大丈夫ですか?」

 大丈夫ではない様子だとわかってはいるが。

「おまえ……どうして、ここに」

 時間の把握ができてないみたいだ。だがいつもの明瞭さはないもののしっかりと話せている。これは多分大丈夫か。緊急を要する何かではなさそうだ。

「連絡しても返事がないから家まで来ましたよ」

「え……? わるい……いまなんじだ?」

 覇気のない瞳がゆっくり俺を見る。

「一月二日の午前十時です」

「……え……え……? ええっ?」

 はっきりとした声で樫木は身を起こした。火事場のなんとかみたいな感じでがばっと。

「うそ、だろ……」

 呆然とした表情は芝居をしてるようには見えない。

「嘘じゃない。あんたいつ寝たんだよ」

「三十一日」

 ずっと寝てたって言うのかよ。それなら連絡つかないのも当たり前か。

「……仕事のしすぎなんじゃねえの?」

 熱まで出して。

「いや、仕事は終わったんだよ。だから寝た」

「だったら根詰めすぎだろ」

「元日は早起きしておせちを重箱に詰めようと思ってな」

 はあ? おせち? まさか自分で作ったのかよ。

「仕事で疲れてんのにやる必要ないだろ」

 適当に皿にでも出せば。

「正月の雰囲気が出ない。今回作る暇がなくて出来合いを買ったからせめてな。お前と食べるんなら格好つかんだろうし」

「あんたな……」

 そのために無理して体調崩してたら本末転倒だろ。そんなのダメだろ。

「水持ってくる。熱あるのわかってます?」

 何か食べさせないとと思いベッドから離れる。冷蔵庫に何か入ってるだろう。

「熱か……確かにぼんやりしてる気がするな。いや、歩」

「ん?」

 呼ばれたので足を止めると。

「出かけるぞ」

 は?

「馬鹿言うなよ」

 車は無理だし仮に近場の歩きでもそんな体調じゃ無理だ。

「お前と初詣行きたいんだよ」

 何言ってんだ。ガキか。行く気はあるのかもしれないが体はまだ布団の中だろが。

 ……もしかして。

 いつも正月は一人だったのか? 友達とドンチャン騒ぎで年越しなんてのもあっただろう?

「高校の三年間は一年の担任だった先生が家に呼んでくれておせちやお年玉をいただいたんだ。初詣も大きな神社に連れて行ってもらった。だから正月はそうあるべきだと思っててな」

 施設育ちで身寄りがない樫木を暖かく迎えてくれる恩師がちゃんといたのか。

「先生の奥さんの手伝いをしながらおせちやそばの作り方を覚えて、卒業してからはずっと年末年始は静かに年越ししてたな」

 憧れみたいなものはあるのかもしれない。

「来年」

 だけど今年は。

「来年、行けばいいだろ。おせちも年越しそばも初詣も全部、来年やればいい。あんたがいいなら、俺は来年もここにいるから。だから今日は俺で我慢して」

 外出させられるか。丸一日、枕元のスマホの呼び出しにも気付かずに寝てしまえるほど疲弊してるのに。ゆっくり休養を取るのが先決だ。

「……そうだな。お前がいるだけで御の字だな」

 あっさり引いたってことはやっぱりだるいのだろう。

 本当は来年の今頃のことなんてわからない。でもそうありたいと願うことはできる。


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