第8話 甘い夜

 人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。

 彼らはもはや、ふたりでなく一体である。

だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。 イエス・キリスト

マタイ19:5~6


 和美の父は、今は独身で、その夫人、つまり和美の母は別れて別の町に暮らしている。

 父の職業は、食品などの卸売業者の経営をしていて、接待が多く生活が不規則だと言う。


 恵子は高校を卒業後、スーパーのレジの仕事に就くも続かず、今はスナックに勤めている。


 浩の下には弟がいて、現在ミリタリーにはまっている高校3年で、来年陸上自衛隊に入るつもりである。

 曹学と言われる高卒レベルだが、入隊して2年で下士官階級にあたる3等陸曹に昇進するというルートだ。


 彼は中学生の時に、学力レベルで俺と同じ高校に進学を勧められ、進学したが、その後調べることにより、中卒で自衛官になる少年工科学校と言うエリートコースを知って憤慨している。なぜ、中学教師は少年工科学校を教えてくれなかったのだと。

 いわゆる自衛隊生徒というやつだ。

 もっとも彼の中学生時には、ミリタリーにはあまりはまっていなかった。


 後々、彼は自衛隊生徒にならなくて良かったと言うようになる。15~16歳で階級社会に投入されると考えると、それは想像に難くない話だ。


 そうは言うが、その倍率とレベルでは、誰でも合格出来るものでないが。


 俺の方はと言うと、市役所も階級社会で、初級、中級、上級と分かれたコースで採用される。


 俺は大学受験も考えたが、高卒の初級公務員である市職員の採用試験を受け合格し、そのまま公務員になった。


 市の待遇は何年かごとに、技術職でない、数部署を歴任することになる。

 大学卒業後に上級公務員になるルートも知ったが、誰でも採用されるわけでもなく、倍率が高く、不採用の者が浪人までして採用を目指す者もいると言う。


 確かに学を持ち、管理職を目指すのは収入も多くなり、出世も早いが、責任は重く、中には採用される年齢が20代中~後半になる者もいると考えると、興味がなくなった。


 ホッケの開きは、あの熱烈なキスを冷ましていた。

 母の愛情もあるのだろう。

 和美はホッケの開きとおにぎり一つでいいと言う。

 それで、いきなり俺のベッドに寝そべって言う。


「ヒロシのベッド汚いな、それに、シーツが黄ばんでて臭い」


 俺は照れながら言い返す。


「汚いか?何他人のベッドで勝手に寝そべってんだよ」


 そこで、食べ終えた食器をキッチンに持っていった。

 親は消灯して寝室に入った。


 俺の部屋の下は居間になっていて、親の寝室の音はしない。

 弟の部屋は一階にあって、この部屋とは少し離れている。


 歳の近い兄弟にあることだが、仲の良いこともあるが、悪くなると殴り合いになる。

 そんなことは少なかったが、思春期の不安定な時に起こりがちな事である。

 二人が高校生と中学生に分かれていた頃、両親は新築の家を建てた。

 それまでは借家や市営住宅に住んでいたこともあった。

 両親には、家のローンを組むには少し遅い年齢だった。

 定年後も少しローンが残ることになるが、田舎の土地の値は知れたもので、家賃の負担も続く。

子供に何も残せないことを考えると、新築の家の方が理にかなっていると思ったのだろう。


 そんな、市営住宅の狭い間取りの鬱屈した空間で、2度3度弟と殴りあった。


 幼い頃の2歳の歳の差による体格の違いは大きかった。

 お互いただの幼児である。どちらかが我が儘をすると、片方も怒る。

 どちらからにしろ、手が出ると、体格は小さい方が負けてしまう。


 そんな力で圧倒したのが、思春期の体力の拮抗をむかえると、派手な殴り合いに至ってしまうのである。


 これは互いの立場が近すぎるがゆえの、相克と言うものなのだろう。

 いわゆる、兄弟であるがゆえの甘えと依存があるのである。


 そんな弟、建二も自衛官を目指すのだと言うから立派になったものだ。

 認めるがゆえの、不干渉というのが当時の関係だった。


 夕方1人で浜に行くにも、和美と深夜帰宅するのにも顔を合わせていない。


 弟は部屋に籠っているというより、夜は9時~10時に早寝をして、学校を行く前にジョギングをして、身体を鍛えている。

 クラブ活動は柔道をやっている、根っからの体育会系だ。

 その後、彼は希望していた自衛隊に入り、兄弟そろって公務員になった。


 その兄は女性に夢中になり、性欲と理性は間をさまよっている。


 ベッドに座った和美の待つ部屋に戻ると、彼女は、少し寂しそうにしているように見えた。

 和美の身体に触れるように、その横に座る。

 和美は少し茶化して言う。


「ふーん、今度はちゃんと密着するんだ」


 和美の右側に着いて、左手を彼女の肩にまわして、抱き締めた。


 また、和美の頬にキスをし、頭の匂いをかぐ。


 なぜなら、彼女の低い身長は座高も低い、鼻の位置が彼女の頭の位置になる。


 ホッケの開きの匂いにしないが、車の中の時よりも乾いた汗の匂いがする。


 和美の出す香りが俺を酔わせる。

 彼女はもう茶化すのをやめて言う。


「ねえ、わたしの匂いって、そんなに好きなの?だったらそうしてて」


 髪の芳香もそうだが、彼女と触れている暖かさに気分が最高潮に良くなる。

 彼女の頭に当てていた鼻を彼女の顔に当ててみた。

 彼女の目がうつろになってきた。可愛い表情だ。

 鼻で彼女の鼻をつつこうとすると、彼女もこちらに顔を向けてくる。


 鼻で鼻を愛撫していると、くしゃみが出そうになり、急に止めた。

 立ち上がって、ティッシュペーパーで鼻をかんだ。

 彼女は押し殺した息で言葉をしぼりだす。


「なんだ、良いところで鼻出して、しらけるじゃん」


 その声は茶化すときのそれでない、消え入るかのようなものだ。


 俺は要求してみた。


「和美は背が低いから、ちょっと体勢がきつくて。車の中んなかは狭いからどうにでも出来たけど」


 和美は言う。


「それじゃあ、ベッドで寝そべって、抱き合うか。ちょっと眠くなってきたし」


 時間はもう12時近くになってきた。お互い、朝から仕事の疲れて来ている。

 あの爆発的高ぶりから、若い二人の体力も限界に達してきたようだ。


 キスするつもりで、二人でベッドに横になったはいいが、車の中とはテンションが違いすぎた。


 横になってキスしようにも、まくらが合わなくて辛い。

 覆い被さって唇を合わせたが、そろそろ眠気がさして、朦朧としてきた。


 するにはするが、車の中での盛り上がりがない。気がついたときは、もう朝になっていた。


 深夜0時床の上で二人は、そのまま失神し眠ったのだ。


「やだ、本当に泊まっちゃったね。男の人のベッドで寝るなんて」


 聞いてみると、和美の勤める会社は家から車で15~20分程度のところである。

 ジーンズで出社するわけにはいかないだろうから、一旦、和美の家まで送ろうと考えたが、そのまま出社すると言う。

 バイク通勤して、会社でスカートスーツ姿に着替えるのだとか。

 こうして、一晩中共にいた二人は、朝にはちゃんと出勤したのだった。


 和美の会社の前で、彼女を車からおろし、自分も車から出て、彼女を軽く抱擁し口にキスして別れた。


「じゃあ、夕方電話するから」


 そう言って会社へ入っていった。


 朝の別れ方は、まるでアメリカのドラマか映画の男女のようで、その型にはまったさまに自分で感心した。


 その足で、そのまま市役所へ向かった。


 和美と会っていたので、昨晩風呂に入っていない。


 和美のぬくもりが残るなか、1日の業務は心ここにあらず、と言う感じで終始していた。

年上の女性職員に冷やかされるのにも意に介しなかった。


 夕方帰宅して、すぐ風呂場でシャワーをすませ、和美の家に電話をした。

 まだ6時になっていなかった。


 電話に出たのは父親のようで、彼は姉妹の居住する家に、男である俺が電話をしても意に介さないようだった。

 素っ気なく


「いないよ~、どちら様?」


 と聞いてくるので


「佐藤浩です」


 と答えた。

 すると


「佐藤?あれ、去年別れたやつか?」


 彼女の父親のわけのわからない返答に言葉が出なかった。

 しかし、ずいぶんくだけた人なんだなと思った。

 会話が終わり、電話を切ると和美からの電話がすぐ入った。


「もしも~し和美!なんでさっき電話出なかった?会社にいるから来てよ」


 彼女の出社は俺の車だったことを思い出して、しくじったと思ったが、シャワーしたかったので仕方なかった。


「わかった行く行く、ごめんね。バイク無いんだもんな」


 和美の会社に着くと、スーツ姿の彼女が待っていた。

 制服姿とまた少し洗練された美しさを感じる。

手には袋を持っている。おそらく昨日の私服だろう。

 車に乗せると少し汗臭く思えた。

 ただ、この朝までこの香りの中にいたのだ。

タバコ臭も混じっている。

 彼女は言う。


「ずるい、お前もう風呂に入ったのか?わたし臭いだろう」


「その匂いかいで喜んでる俺です」と言った。


 職場にいてタバコ臭が付くというのは、当時当たり前の事だった。

 この田舎で、当時タバコ臭いだの騒ぐ話はそんなになかった。


 俺は聞く。


「和美ちゃんさ、そのスカート会社に置き去りにしたやつなの?」


「そう、毎日毎日洗濯してる暇ないよ。2~3日に一辺持って帰って洗うけど」


 その話に納得した。しないのは彼女の父親の話だ。

 俺の名を聞いて、妙なことを言ったことだ。

さっそく和美に聞いてみた。


「ああ、パパが電話に出たのね。佐藤って恵子の別れた彼氏だよ、高校3年の時付き合っていた。佐藤洋一、よくヨーイチ、ヨーイチって言ってた。パパはいつも恵子の事とわたしの事区別しない」


 貞操観念の違う姉妹を一緒に考えるとは、少々苛立つのも当然のことに思うが、彼女はそんな父親の話をする時は、それほど嫌ではなさそうだ。


 和美の家に着くと、あの田園風景の佇まいは相変わらずだが、前とどことなく違う。


 二人で車を降り玄関に向かった。

二人で家に入ると、彼女の父親に挨拶をしようと思って、少し気張って居間に入った。


 背の高い中年男性で、髪が白髪と黒髪の混じった頭をしている。


 その時はソファーの上に横になっていた。

二人で入っても別に気遣う様子もない雰囲気だ。


「パパ、わたしの彼氏紹介するね。浩君よ」


 和美の言葉に反応して、背の高い父親が起きあがる。

 その溌剌はつらつとした身のこなしと発言に彼の軽やかな躍動感が伝わってきた。

 経営者とはそんな人なんだろうな、と思った。


 彼は少し驚いた様子で応じる。


「ヒロシ?聞いた名だな。あっ、さっきの電話の人?洋一君じゃないのか」


「はい、佐藤浩です。先ほどはどうも。和美さんとお付き合いさせてもらってます」


 このかしこまった自己紹介を聞いて、また驚く。


「えっ、こんなきちんと挨拶出来る彼氏連れてきたのか。和美も変わったなあ」


 この言葉を聞いて和美はムッとして言う。


「パーパ~、恵子じゃないんだってば、わたし(今まで)彼氏なんていなかった」


 父親が答える。


「あははっ、そうだっけか。そう言えばそうだったかな。それにしても、うちに来る男の子なのか?すごいな真面目と言うか、役所風と言うか」


 俺はちょっとこけて答えた。


「はい、隣町の市役所で勤めてます、よろしくお願いいたします」


 和美も一言加える。


「彼は公務員なのよ」


 父親は感心して答える。


「へえー、お役所さんか、よろしくって和美と結婚するのか?」


 少し照れて黙っていると、彼は下品に切り返したくる。


「彼氏、浩君、もう和美とやったのか?」


 和美は父親の発言を予想していたような顔をして、口を尖らせて言う。


「パーパ、恵子じゃないんだって、そんなんじゃないよ。でも、先週会ったばかり」


 最後の方の言葉を少し口ごもって言った。


 それにしても、父親がこれだけ肩の凝らない、調子の良い人なんだからと楽しくなりそうな気がした。

 こんなだから、妹が放埒になってしまうのだろうか。





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