第18話 和美の勤めとクリスマス

男なしには女はないし、女なしには男はない

      パウロ

     コリント人への第一の手紙11:11



  当時、ハローワークとは呼ばれず、職業安定所と呼ばれていた、官庁の求人求職の機関があった。

 それとは別に安価なアルバイト情報誌は出始めの頃である。

 この田舎をカバーする求人情報誌は少なかったので、和美を職業安定所に行かせることにした。


 俺の職場も職安(略して)も役所なので平日の昼間の営業になる。休暇をとって付き合おうかと聞いたが、バイクで1人で行くと言う。


 和美が職安へ行ったその日の夕方彼女は意気込んでいた。

 普通免許で使ってくれる2トントラックの配送の求人があったからだと言う。

 もう面接の日時も決め、履歴書を書いている。

 こんないきいきとしている秋の和美を見るのははじめてである。


 女性が運転手を勤めるにはいくつかの懸念があるが、張り切っているのに水をさすことは出来なかった。

 自分で自動二輪の中型の免許を取るくらいの和美だ、道路のことは馴れているだろう。 

 あの軽い身体で400ccのバイクに乗ることは簡単なことではなかった。

 当時大型バイクと言えば750ccでナナハンと呼ばれる排気量のものが有名だった。

 男はそれで峠でも高速でも郊外でも攻めていた。

 女性の力で750ccのバイクの引き起こしが出来ないと言われていたが、和美はその下の機種を乗りこなしていた。

 免許は短大に通っていた夏休みに講習を受けて取得したと言う。ちなみに俺に出会った時言っていたイーグルスのコピーバンドもその頃の学園祭で参加している。

 ホテルカリフォルニアの12弦ギターのアルペジオの部分を、普通の6弦のアコースティックギターに7フレットかカスタポをつけて弾いたそうだ。このアルペジオ演奏のない部分については何もしない。

 和美はそれを演奏したアコースティックギターだけ持っていた。

 ホテルカリフォルニアが流行ったのは1977年がどうだの言っていたが、実際に演奏したのは1982年のことである。和美19歳の夏のことである。

 その翌年観光ビザを取得してLA旅行をしている。

 何とも積極的かつ羽ばたいた青春の夏だったことか。父修も秋冬内に籠もる和美を見兼ねての出費だったのだろう。


 そして和美はバイクでその配送運転手を求める会社へ面接に行った。

 結局のところ面接は他に数名の応募があったが、父の会社を面接官が知っていて、和美の採用を決めたと言う。旧姓を名のると、すぐ気づいたと言う。

 和美は意気揚々としている。


 何とか内に籠もる和美を外に引き出したが、幸運にも恵まれていた。

と言うのは、普通免許で乗れる小型トラックや乗用車を使用した運転手の求人は常に少ないのである。

 給料が安くても業務内容が手頃なだけあって、なかなかこの職を離れる人も少ないかも知れない。

 昨今のデフレ不況の世でも2トントラックと言うと主にコンビニの配送だが、この職も今では田舎でなくとも求人が少ない。

 ただこんな職にいつまでも就いていても、家庭を持ったり家族を養うだけの収入にもならないかも知れない。

 若い主婦の和美にはそれで適任だろう。

父のコネも入ったことも幸運だ。


 プロドライバーは大型トラックに多いが、女性がこの職に就くことは当時田舎でも少なかった。

 トラックに寝泊まりしながらの長い拘束時間も過酷だ。

 この問題が最近言われている運送業に迫っている。

 基本は長時間運転による弊害に適用されているらしいが、他にも待ちあわせ時間やそれに合わせた運転計画による長時間拘束だとかいろいろある。

 高待遇だけでは最近の人はその職に就きたがらない。手頃な業務待遇では将来食べていけない。なら、この業界に入らないと言うわけだ。


 これで和美が完全な安定を取り戻せるかどうかは、もうある程度どうでも良いことだ。彼女には俺と言う帰って来るところがあるからだ。

 女性特有の事情もあるからある程度の休暇も離職も認められるだろうし、若さもある。

 田舎と言えどもある程度の選択肢はある。妊娠出産の事情があるとなおさらだ。


 和美が安定して稼げるようになったら、彼女用の車も持てる可能性もあるし、生活の行動の幅がひろがれば、それだけ充実した人生が期待出来る。



 時はもう初冬、車のタイヤはスパイクタイヤだ。

 当時まだスタッドレスタイヤは無い。

外国製のミシュラン社が販売していたが、田舎には見られなかったかも知れない。

 1990年に施行された「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律」まではスパイクタイヤで冬期どの車でもどこでも走っていた。

 この法律が施行される何年も前から、スタッドレスタイヤの販売が活発化していたが、初期のそれはスノータイヤか夏タイヤに毛のはえた程度と言う感じだった。

 地球温暖化が騒がれる前のことと言え、まだ北国以外の地域では対岸の火事だったのだろうか。

 札幌や仙台の町でスパイクタイヤのピンがアスファルトを削り、粉塵を発生させ健康被害を起こしていた事に対する措置がスタッドレスタイヤである。

 1990年のこの法律の施行によりタイヤメーカーはより効果の期待出来るスタッドレスタイヤを開発したのだが、それは当時のドライバーにとっては画期的だった。それは、アイスバーンでピン無しタイヤが走れるのかどうかと言う懐疑的意見が大方だったのだ。

 ただ、その法律は路面全面に圧雪やアイスバーンなどによりアスファルト路面が露出していない場合のスパイクタイヤ走行には適用されない。

 要はスパイクピンが路面を削る状態でなければそれで良い。

 

 その後スタッドレスタイヤにスパイクピンの付いた非金属チェーンをはくドライバーもいるが、環境に合わせて最適の状態を作るのだが、これは後続の車がスパイクタイヤでない場合に追突されやすくなる。

 これも圧雪アイスバーンが無くなる路面だと違法になる。


 それらの事情も心配も無い時代だ。

11月の黒い冬、ガリガリと音を立ててスパイクタイヤの車が往来する。走行している音はビリビリと言った方がわかりやすいかも知れない。


 そんな中和美の職業生活が再開された。

働きはじめて一週間和美は気張っていた。馴れない職場で、車への荷の積み込みも自分で行う。


 俺との夜の営みも淡白になっていく。

和美は少しばかりだが肉体労働を含む仕事に疲れをうったえるようになる。しかしその顔は充実して見える。


 和美を膝の上に乗せ、抱きかかえると俺の上でうたた寝をする。

 いじらしく、愛らしいがしばらくは互いの辛抱の時期だ。

 そういうわけで俺の家の家事も全般におよぶようになった。

 ただこれは当時の俺と同年代の人は皆そんなだったろう。親元離れている単身者は少ないと言ったが、自分の実家のない町や地域で勤める人は、アパート暮らししている場合、全面的に自分ですべて行う。

 当時北国の地域どこでも、食事などを出す独身寮のある企業も殆どなかったように思う。


 俺は仕事帰り行きつけのスーパーに寄ってから家に帰るようになった。

 和美は俺の帰宅後仕事から戻ってくる。大体会社の人が送ってくれるが、俺が車で迎えに行くこともある。

 民間の会社に勤める場合は、その辺妥協しなければならない。


 しばらく土日休みは2人で宿舎ですごした。車でのドライブデートもない。

 その点俺が楽になったが、疲れている和美を抱くことに少々力を持て余すようになった。

 和美の圧倒的性に押され、いつの間にか精力が強くなっていた。

 和美と交わらない夜も出てきた。


 そんな中俺は20歳になった。


 クリスマス商戦に明け暮れるテレビとデパートと町の個人店。何もかも暗闇の中、きらびやかに明滅を繰り返す何色かのクリスマスツリーのライト。

 1980年代と言うのはこんな華やかさが映える時代だったようだ。

 これが1989年のバブル絶頂期に最盛期になる。1990年とも1991年ともバブルは崩壊したと言われるが、それは不動産業界の事で、まだ昭和の価値観が抜けていない、バブルが崩壊したことも実感していない人々にとっては、そのまま幸福な世が続くと思っていた。


 そんな季節に俺の誕生日がやってくる。クリスマスパーティーのついでか、クリスマスパーティーの中で俺の誕生日に言及するだけのお祝いと言う感じだった。それでも気にはしなかった。

 他の友達やクラスメートが、何の祝いのない月や季節であればある程誕生パーティーは盛り上がる。


 疲れた和美を外に連れ出し2人で町のこの情景の中歩く。

 和美はこの華やかな季節これまでどうしていたのだろうか。聞いてみた。

「ねえ和美、冬嫌いって言ってたけど12月はどうなの、盛り上がった?」

 彼女は答える。

「うん、まぁ12月は良いかな。久し振りの雪も悪くないしね」


 この頃12月、1ヶ月いっぱいクリスマスを祝うと言う感じだ。キリスト教とは関係ないが、子供の頃親が気を使ってクリスマスの朝早く眠っている子供たちの枕元にクリスマスプレゼントを置いてくれるのが嬉しかった。


 この時期になっても、あの浜と同じような目線を送る女性がいる。付き合っている彼氏のいない個人やグループ連れだ。

 時々若い男が俺も和美を見る。俺の顔を先に見る男は少し侮蔑の眼差しだが、和美を見ると目を見張る。

 その目には俺への羨望も含まれて感じる。

時々それを口にする者もいる。

「いい女、でもなあ…」


 俺は和美に聞く。

「和美仕事はどう?馴れてきた」

「うん、だいぶね。何だか疲れたけど、体力もついてきたかな。まだ若いもん」

 俺は茶化した。

「でも、あっちの方は若くなくなった」

 和美はおどける。

「お前は物足りないのか、(結婚して)しばらくはヒーヒー言ってたくせに」

「そうだっけか。はじめラブホテルで16回したとか言ってただろ。数かぞえたのか」

「そうだよ〜。お前いきなりだもんな、痛かったのに、それからだんだんと…」


 俺はやっと成人になったが、それ以前に和美によって大人になった。彼女を宙ぶらりんの立場に置きたくなかった。

 彼女の親族に会う度、しっかりしてるとか言われるが、役所の業務を担当する身としてはそれくらいの覚悟は当然のことだと思った。

 18歳で公務員になってから半年以上18だったことに先輩たちに若いと冷やかされた。それから19歳になって1年せずに結婚。

 我ながら上出来だが、未成年と言っても60歳の定年までここにいる覚悟もあるのだ。

 しかし、まだ子供は授からなかった。若いし、まだ給料も安すぎるのもあるし、和美の状況を考えると焦る気もなれない。ただ避妊してないが。


 12月下旬の24日クリスマスイブがこの月の絶頂を迎える。

 現実では25日がクリスマスなのだが、25日には一斉に正月商戦に何もかもが切り替ってしまう。テレビでもラジオでも新聞でも、クリスマスパーティーを25日にする家庭はそんなになかったかも知れない。家庭用クリスマスオルナメントは残っているが。


 当時デパートでかかる有線放送ではクリスマスソングは洋楽が殆どだったと思う。

 松任谷由実の曲はヒットしていたが、山下達郎のクリスマスの失恋のあの曲はまだ世間にあまり認知されていない感じだった。(1980年代後半にテレビのCMかなんかで広く知られるようになった)


 ポールマッカートニーが1979年にリリースしたものがあるが、それ以前のジョンレノンの曲は悲しかった。

 1980年に彼は亡くなってしまった。この記憶が新しく、曲調もどこか哀し気だった。

 ビートルズのファンではなかったが、あの年の12月は辛かった。その前にレッドツェッペリンのジョンボーナムが亡くなっておりバンドも解散した。

 それから月日がたち12月になるとジョンとヨーコの曲がかかると心が悲しくなる。何十年経ってもそれは同じだ。


 そして年も暮れ年末に向かうが、当時俺の地域は雪があまり積もらない。

 降るには降るが、昼間の日光に照らされて融けてしまうことが多い。


 和美は12月に入っても日によってはバイクに乗るが、遠出はしない。少し山に入っただけで路面が圧雪やアイスバーンになるからだ。

 

 最近の気候変動だが、12月から厳しい寒さになる。どうも昔よりも今の方が12月寒さが厳しい。真冬も同じ印象がある。


 もともとはこの一帯は積雪がきわめて少ないため、除雪車が公的資金によって運営されることがなかった。それが今になっても残っているようだ。


 昔の方がバイクに乗れる期間が長かった気がする。

 郵便配達のバイクはスパイクタイヤをはいて業務を行なっているが、普通のツーリングバイクが冬タイヤに履き替えても夏さながらの走行は出来ない。そもそも冬に郊外で2輪車を見ることすらない。

 ほぼ、郵便と新聞配達のバイクだけだ。



 

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