第17話 建ニ落ちる 冬を迎える
建ニは自衛隊曹学に落ちた。
何でも、身体検査は良好だったらしい。
高校を卒業して、2等陸士として入隊し、しばらくは若く、年齢制限の範囲内なので曹学の試験を受け続けるのだそうだ。
忘れたが、当時曹学の受験資格者の年齢制限は21歳までだったと思う。
それまで合格しなかったら、陸士長での陸曹候補生の受験資格が得られると言うことになる。
高校卒業後の春に入隊する人が多く、当時これを3、4月(入隊)隊員と呼ぶ。
この枠で入隊するのでないが、多かった。一般にこの形での入隊者が常識のように受け止めている人もいた。
曹学についてだが、特に学力や能力に劣っているわけではないが、18歳で入隊した者が20歳でいきなり上官になると言う素質をそなえた人物には普通なれないだろう。
それだけに曹学の合格も簡単ではない。
一般には、18歳か19歳で入隊した2等陸士が、2年弱後の20歳くらいで陸士長になり、それから陸曹候補生の試験を受けて、合格するまで何度も受験をして、合格してから、それから候補生として訓練が始まる。(1年に2回試験がある)
普通旧軍で言う職業軍人に相当する上官になるには、それだけの期間と経験が必要だと言うことだ。
自衛隊でもマイナーリーガーがメジャーリーガーになるには何年もかかる。
10代の若い男の子がそう一人前になれるわけではない。心技体能力すべて兼ね備えていなければ昇進出来ないのだ。
それにしても、建ニは入隊してしばらくは、面会と言う形でしか友人とも誰とも会えない中、恵子と付き合うのだろうか。
土日は順調だと外出許可が出るが。
3ヶ月の共通教育、3ヶ月の専門教育、その後、部隊配属されて新兵としてやっと先輩や上官と対面する。
それでも、まだまだただの使いっ
訓練期間中も部隊でも、外出許可も全部通るわけではない。
既婚の若者が、この階級で入隊したと言うのも、かなり珍しかった。下っ端階級の者が結婚する許可を得るのも簡単でなかったらしい。
ただ、さすがにもうある程度の時代だったので、裏技を使ってでも結婚したい隊員にはさせていたのだと思う。これもその隊員が成績優秀で嘱望されていての話だが。
これは、どういうことだと言うと、陸士階級の人身の管理は部隊がしなければならないからだ。
兵隊の身に何かあると、その責任は上官や部隊長にあるのだ。これが曹階級になると自己責任になる。
戦争が仕事だからと言っても、軽い怪我でも上官の管理責任になるのだ。
隊員が悪い異性に引っ掛かって思いを乱すのも避けたかった。
生活が乱れると任務に支障をきたす。それで、危険が増すと言うわけだ。
俺は初級公務員として終身雇用だから、下っ端の兵隊と違う。自己責任で結婚した。
一時はどうなることやらと思ったが、何とか持ち堪えている。
そんな管理責任の集団の中にいて、安定しているかどうかわからない高橋家の人と2人とも付き合うとは。
上官に上がれば管理される側から、管理する側になる。部下がしくじると、後の評価査定に影響する。
一回目のデートの後、女の家で深夜2人きりになる彼らだが、俺たちと違ってある程度の経験のある者同志だ。
交際1ヶ月で入籍するなどと言う環境にない。
年が明けて自衛隊に入っても、春から下っ端で給料も安すぎる。相手はスナック勤め。
時々俺の宿舎に建ニから電話が入るようになる。この2〜3年少々断絶していた仲だったが、恋の悩みがあるのだろう。
まぁ、おそらくは破局するだろうと思った。
俺と和美の交際何日目かに、結婚を匂わせることを言って和美ブチ切れ事件があったり、母親の家への逃避行はあったが、互いひとり行為でない性生活によって、あの激情はなくなってきたようだ。
あの和美の身体に俺はついて行ったのだが、それはそれで幸せだ。
しかし、あの夏の日の瑞々しい和美ではない。
彼女はまだ宿舎に籠もっている。
昼間からひとりでいるのは良くない。なんとかして和美を外に引き出さなくては。
和美は近所のスーパーへは行くが、重い物まで買わない。スーパーで買い物をして依頼すれば配達をしてくれるが、依頼するのが面倒だと言う。
パートか何か職があるのかと探したが、半年だけ勤めて辞めた人を雇う企業もあまりない。
昼間ひとりで家に籠もって精神が持つのかと聞くと、大丈夫だと言う。ただ、テレビは昼間の番組はつまらないと言う。
それに11月は北国にとって退屈で味気のない時期だ。
俺たちの町は海が近いので雪は降るが、積もらない。10月からあられが降り始めるが、この時期何年かに一回雪が積もる。ただ、それは一晩かそこらで融ける。
内陸部や寒さの厳しい地域になると11月から根雪になる。そこでは11月から翌春までもう、この雪は融けることがないのだ。
しかし、ここでは時々降っては融ける、雪と寒さが繰り返されるが、積雪がないので晩秋か初冬と呼ぶこの夜の長い時期は、アスファルトと暗闇が支配する黒い世界になる。
歳をとっても1年思い浮かべてもこの月だけは印象がない。
10月下旬の華と騒動を巻き起こすハロウィンパーティーは、この時代はない。地元アイルランドにはあっただろうが、日本では認知されていなかったと思う。
郊外の紅葉の季節はもう過ぎていて、枯葉の舞う景色が広がる。
遠くの山々の頂には白い雪の冠で覆われている。
こんな季節を彩るにふさわしい何かが欲しかった。
何年も前にスウェーデンのバンド アバが流行っていた事を思い出した。
70年代ももう洋楽黄金時代と呼べる時期で、田舎でもアバのレコードはラジオでもテレビでもかなり流れていた。
その中でもヒット曲 チキチータ は何の気負いもなく、この寒冷地の空気に溶け込んで感じた。
地元のレコード店でアバのレコードを探したが、LPはあるだろうと思った。
驚いたことにシングルレコードも置いてあった。もう発売されてから何年もなるのに。
どうするか迷ったが、思い切ってLPレコードを買うことにした。
アバは1976年にアメリカでヒットした ダンシングクイーン で広く知られていたが、日本でヒットしたのはしばらく後のことと言う印象がある。ヒットし始めが遅かったのか、ヒットしている期間が長かったのか、よくわからないが、1978年以降のサタデーナイトフィーバーによるデイスコソングの流行と平行して人気が高かった。
シングルと言う一曲を目的としたソフトの販売は、曲の価値を尊重するには重要だったと思う。
CDに変わって80分も詰め込むと曲の価値が下がって感じる。あまり聴きたくない別バーションやダブバーション、ライブバーションまで詰め込んで尺を稼ぐ、と言うか…
LPとはロングプレーヤーの略で、アルバム単位での販売に使われる。
長いもので40数分、普通のアルバムは大抵30分代だった。
中にはLPでも全曲で20分くらいの作品もあった。
例外的なのは先に出てきたレッドツェッペリンのライブである
片面で25分もあり、2枚組で約100分も収められている。
チキチータの収められているアルバムは ヴーレーヴー と言うタイトルで、同タイトルのヒット曲も入っている。どちらもラジオなどで耳に馴染んだ曲だ。
宿舎の部屋でこのアルバムをかけると、はじめのうち和美はピンとこない様子だったが、2〜3曲のヒット曲を既に知っており少し大人しくなった。
11月には珍しい斜めに差し込む鋭い陽光とそのレコードの情景が部屋を和ませた。
それから、この年の末リトルリバーバンドがLRBとバンド名を略字にして、アルバムPlaying to Winを発表した。
前作が日本盤では青色ディスクという気張った割には内容の煮え切らないハードロック調とポップな曲が占めていたために、期待押さえ気味に聴いた。
季節は冬に差し掛かった中、ライナーノーツに述べられている デレクペリッシ氏と ビーブバートルズ氏の脱退と失意の文章と、アルバムの内容に気分は滅入った。
この落ち込みを励まそうと、冬に方向転換でないが、売り出し中の初期の ヨーロッパ の2枚と イングウェイマルムスティーン のデビューアルバムをチェックした。
イングウェイは伊藤にお願いしてテープをコピーしてもらった。彼は早くもチェックしていたのだ。なぜならレインボーファンの彼は元メンバーのグレアムボネット氏のバンドにイングウェイが参加しているからだ。
当時のヨーロッパはサードのファイルカウントダウンのアルバム制作前で、まだ垢抜けないマイナーなハードロックという感じだ。ただ、セカンドとなると、洗練された曲が目立ち次作へ大ヒットもうなずける。
どちらも和美はピンとこないし、イングウェイのギターがうるさいと言う。何だか自分独りで目立ちたい、という感じだと言う。
1984年とはそんな年だった。
休みの日は郊外に車で2人でドライブに行った。
あの湖の展望できる高台の店で食事をしたり、そこからまた遠方へ向かい、秋のうちから山頂に雪の冠を頂く山岳を望みながら走る。
アバのヴーレーヴーのアルバムは40分に満たないので、ドライブしていると何回か繰り返す。
アルバムをテープにコピーする時は90分のテープの片面にアルバム全部収録するか、46分のテープにレコードを片面ずつ収録する。(カセットテープはレコードと同じで表裏面がある)
普通のアルバムだと、カセットテープに余白ができてしまうため、そこへ、気にいった曲を入れたりして無音状態を無くすと言うことをしていた。
アバのこのアルバムはヒット曲も良いが、全体に収められているバラード曲のハーモニーがとても良くこの風景に合っていた。
1980年代も終わりに近付くと、北欧からは TNT、220Volt、Treat、Alienなど優れたバンドが出てきて、これらのバンドの曲をカーステレオでかけると、北国の冬の夜の空に美しく棚引き漂うオーロラの情景を想起させた。
北欧には Da Vinci、Returnなど優れたバンドが他にも80年代にあったが、日本では何年も先の90年代のCD販売専門になった頃ようやく認知された。
その後我々の子供が育っいる時、TNTの Tell No Tales のアルバムを聴いてから冬のイメージを決定づけられた。
はじめ和美はトニーハーネルのヴォーカルがうるさいと言ったが、Northern Lights の一曲で大ファンになった。冬でもロマンチックな心を和ませる世界があるのだと。
北国と言えど日本だ。カーテンのようなオーロラは出ない。
何年かに一辺山火事のようなものが観測されるにすぎない。
ただ、これら北欧のロックをかけて走る冬の夜のドライブは、空にテレビで見るようなオーロラが出てきてもおかしくない思いにかられる。
これらのバンドが出てきて日本でもその音楽をかけられるようになるまでは、相変わらずウエストコースト、AORのバンドの曲を冬にかけていた。
まだ1984年だ。心の中のオーロラはまだ先のことだ。
まだまだ冬には雪が融けて夏になるんだという心を片隅に秘め生活をしている。
和美を陽の当たる場所に引っ張り出さなくてはならない。
冬の社会経験のない身をどこへ、どうして落ちつければ良いのか。
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