第10話 真夏から晩夏へ 和美落ち込む

 1984年のUSドル/円レートは平均237円だ。当時の日本人にとってずいぶん円が強くなったものだと感心していたが、まだ一般サラリーマンなどの人が、海外へ簡単に旅行へ行ける感じではなかった。

 それでも、経営者層など、ある程度の収入の人ならば海外へ行く人も田舎でも増えていた。


 実は和美は短大の夏休みの期間を利用して、団体ツアーでロスアンゼルス旅行をした経験がある。

 もうウエストコーストもAORも下火になって、ヤシの木の下でトロピカルな夢気分を味わう時代も終焉を迎えようとしていた頃である。

 しかし、和美にとって出入国審査やパスポートの手続きの煩雑さを忘れさせてくれる、ロングビーチの砂浜の思い出が鮮明だと言う。

 はじめて会ったとき、自らの体験を話さなかったが、憧れたウエストコーストのロックサウンドのもととなる風景が、鮮やかな記憶となったのである。

 このような話になると、和美は刺々しい態度でなくなる。

 俺にとって和美と結婚したとして、夫婦で再びロングビーチへ訪れる可能性はあまりないが、完全に諦めるほどでもなかった。

 和美の家が裕福なのと、俺の公務員としての長期休暇が取りやすいと言う理由がある。

 はじめて会ったときの70センチのディスタンスになくなり、密着の関係になったが、胸一杯になって語り合った夢と、これから見る夢との語り合いで、さらに胸が一杯になっていった。

 そんな2人の夜があっという間にふけていった。


 例によって和美の父高橋おさむは深夜になっても帰宅せず、夏の朝陽が昇るキラキラと輝く田舎の美しい自然の中に帰宅するのである。

 

 その前の時間は、職業を放り出さない堅実なカップルは、別々の床について朝には職場へ向かう。

 その日も恵子は、俺が和美の家にいる時は家に帰って来なかった。


 当時風営法の改正直前だったので、バーやスナックの飲み屋でも早朝まで営業していた。

 田舎でもかなり人口の少ない区域でも、それらの店は営業していた。和美の町でも10軒以上集中した飲み屋街があった。


 恵子は父修のコネで、そのスナックに勤めている。

 修と同い年の女性店主が経営しているから、もっぱらこの2人は出来ているとの噂が広まっていた。

 その日暮らしの恵子でもこの勤めが性に合っているようで、仕事に就いて3ヶ月一度も休んでいない。もっとも店主が気まぐれで突然休業することもある。

 そういうわけで、恵子が休みの時に俺からの電話を受けたのだ。

 それから、あの電話の受け答えだけで、俺と恵子は会っていない。


 俺と和美の交際は順調だった。毎日会っていたが、場所は今まで述べた場所が主なところで、危うい性関係はとっておいて、互いのみさおを守り通していた。

 ただ、唇と舌は相変わらず求め続けていた。

 俺は和美の唾液に酔いしれる癖が止まなかった。

 和美はキスの回数を重ねるにつれ、それに気付きはじめ、あえてそうするようにしていた。


 俺のシビックは調子が良かった。


 俺は家にあるグラビア本を捨てた。


 和美とのキスに時々興奮が押さえきれなくなったが、それは朝の衣服の変化に少し表れていた。

 そうこうしているうちに8月になった。

浜は7月下旬の海開き後に、一般の海水浴客で大いに賑わっていた。これがお盆まで続くのだ。

 人々で賑わっても俺と和美はここに来た。

 8月に入ると恵子のスナックは何日か休みになった。交際1ヶ月ほどして俺はその妹に会うのである。

 それはとても印象的な出会いだった。

 俺は公務員なので、お盆休みというものがなかった。相変わらず夕方の5時まで勤めて、それからデートをした。

 サービス残業をする役所はあるが、俺の勤める役場は仕事量はさほど多くなく、新人の職員でも定時上がりで帰宅出来たのだ。

 俺は和美の家に行くときには、父修はそういった人だから俺も軽い挨拶だけして和美の部屋に入っていくようになる。まあ、相変わらず、修は俺の顔を見るなり外出をするのだが。


 そんな8月のある日、恵子のスナックが休業日だったので、彼女は在宅していた。

 恵子は父さながらにソファーの上で寝ころがってテレビを見ていた。

 俺は若い女性がいるので、それが妹だと察知して軽く挨拶した。


「どうも、ヒロシです。佐藤」

 俺の挨拶に体をよじるようにして見上げる恵子。


「ああ、和美の彼氏ー、ホント役所だね~」

 ぶっきらぼうなのは電話の時そのものだが、顔が似ていない。

 顔が和美より少し面長で、目がぱっちりしている二重まぶたで、いわゆる美人だ。

 黒髪のストレートが肩までは和美と同じ。

 ただ、電話での印象よりも声が和美とよく似ている。

 顔が似ていないのに声が一緒、声が姉妹を証明していた。

 その日暮らしの貞操観念の低いわりには、そこまでの感覚はない。

 特に荒んだ感じのしない美人だ。

 ぶっきらぼうな言葉使いは姉妹共通していたが、和美より背が高く、すらりとした姿の人だ。

ただ服装は黒とグレーのジャージだ。

 冷蔵庫を開ける和美に向かって恵子が声をかける。


「カズミ~良いじゃん、役所彼氏、背が高くてさ。佐藤さん和美をよろしく、つたない姉ですけど捨てないでね」


 ユーモラスな妹の言葉に好印象を覚えた。

ただ、美人だと言ったが、和美の持っている何かしっとりとした味と言うものがあまり無い。

 どこか若い女性に見られる、醸し出す色気と言うものがあまり無い感じだ。そういった雰囲気の人は夜の職業の人に感じられるかも知れない。ただ若いだけあってくたびれた感じは無い。


 当時172センチの身長は同じ年齢の平均よりは少し高かったが、俺が背が高いとは思わなかった。

 まだ10代の後半から20歳の平均身長が170センチになるか、ならないかだった。

 その辺背が高いと言われるの嬉しい気になる。恵子が人の喜ぶ言葉を選ぶことのできるのは父親ゆずり、と言う感じがする。

 そういう言動が自然に出来てこそ、スナックの店員として勤められるのだろう。

 恵子の移動の手段はもっぱら店主の自家用車である。

 酒が商売とは言え、店主は帰りも運転するようだ。おそらく自分は飲まないと思われる。

 この田舎では代行タクシーを使うことは、まだそんなに盛んではなかった。

 それに飲酒運転の取り締まりも、それほど厳しくなかった時代でもあった。

しかし飲酒運転の交通事故を起こすと実名報道されていた。


 和美と部屋で軽くキスをして言った。

「ねえ、和美、キスする時の唾液の味が良いんだけど、何か変態かな、あれがないと気が済まない」


和美が答える。

「変態だ、もう治しようがない。行くとこまで行くしかない」

 そう言って笑う。

 そしてまた言う。

「童貞こじらせてんだもの、変態になるわな、まああれで終わるだけで良いよ。食べ物であれやる人いるらしいよ」


 この話は気持ちが悪くなった。しかし茶化して言った。

「それ、俺らでやる?」

和美「ゲ~気持ち悪い~そんなの最悪…」


 そう言いながら、またキスが始まる。

もうキスする時の体勢には慣れてきた。疲れる体勢とそうでない体勢も心得るようにもなった。

夏の乾きをうるおすジュースの味が残っている。


 当時自販機でも、スーパーでも売っている飲料物は牛乳でなければ大体糖分を入ったジュースばかりだった。ブラックコーヒーはあったと思うが、緑茶の缶や、ペットボトルなどはまだなかったように思う。

 ジュースやコーラを飲みたくなければ水道水を飲む時代だった。

 当然、ミネラルウォーターは国内産のものはなかった。

 糖尿病の人にとっては外での水分補給の大変な時代だった。

 これら飲料商品は、この時代に少しずつ変化があって、現在に至っている。

 1970年代は本当に自販機で販売するものがジュースやコーラ、糖分入りのコーヒー主体だった。

 しかし、若かったからそんなに水分補給しなかったし、糖分が入っていても気持ち悪くならなかった。

 そんな糖分の消化に活発だった若い頃は口の中も甘かっただろうか。


 キスの時和美の飲むジュースの味がしても、あまりわからなかった。和美の甘い吐息と舌の香りが俺を酔わせる。

 和美の身体から出るものが口に入ると言うことにある安心感があった。

 ただ、それも度が過ぎるのを考えると気持ちが悪くなる。

 ジュースの口移しをやろうにも口の中でぬるくなったそれを飲む気にはなれなかった。まだ夏だ、冷蔵庫でキンキンに冷えたものが飲みたい。


 酒は飲んだことがあるが、親がテーブルの上に置いた日本酒を興味本位で口にしてみたと言う体験だ。それはまだ小学生の時なのだが、10歳にはなっていたと思うが、飲んだ。

 それから高校の時、伊藤ら数人が羽目を外して家にビールを持ち込んだ事がある。

 あの頃はまだ自販機に制限がかけられておらず、誰でも酒類が購入できる時代だった。

 少し飲んでみたが、非常に不味く感じたので、それ以来酒は飲んでいない。

 それにまだ未成年だったので無理して法を破るのに金をかけようとも思わなかった。

 車も持っているので、いつでも運転出来ると言うのが誇らしかった。


 和美は21歳なので成人だ、だから酒は飲むのか聞いてみた。一緒にいても酒は飲まなかったし、酒の匂いがしたことがなかった。


「和美は酒飲まないの、見たことないね、酒飲んでるのも」

 和美は答える。

「お酒ねえ、会社で歓迎会やった時、飲めや歌えやの大騒ぎで、大体女の子で酒飲む人そんなにいないよ、飲む子は飲むけど」


 成人男性皆喫煙もそうだが、当時男には酒が付き物だった。運転手ですら少しくらい付き合え、と言う時代だった。本人の自由もへったくれもない時代だった。

 全体的にもそれで好きな人には良かったが、合わない人には大変な時代だった。


 俺たちカップルに酒が入るとどうなるのだろう。それを和美に聞いてみた。

「俺たち2人で酒に酔ったらどうなるかな?ちょっと興味ある」


 和美は嫌気に答える。

「わたしに飲ませてどうするの?それで本当に襲う気だろう、そんなにしたけりゃしらふでしろ」


 和美の答えはもっともだった。それに深刻になった、あの晩の口調が戻ってきた。

 それを冗談で口にすることがあったが、真面目には言っていない。

「しろって言うけど、和美に痴漢もしてないだろ」


 そう言うとまた和美は怒る。

「したけりゃしろ!変態」


 さて晩夏と呼ばれる季節が来た。盆に入るともう肌寒い日がある。

 もともと8月上旬に真夏を迎えるが、その何週間もしないうちに気温が下がる。と言っても真夏の暑さでも気象台の発表する最高気温が25度がせいぜいで、それを越えることはまずなかった。

 それから日によって気温が低くなるので肌寒く感じる。その後の8月下旬に25度の陽気に戻ると言うのも少なかった。

 若かったのもあるし、活発に動いていたこともあり、どちらにしろ適温だった。

 そんな季節に浜に出ても7月の日光の強さはない。晴れているのにまるで、太陽がうつ状態になったかのようにか弱い日がある。

 今考えると40年前の太陽光線は弱かった。当時と今と比較して格段の差がある。

 8月に25℃だった最高気温は、最近では28℃を簡単に越える。

 古い住宅と、今の新しい住宅とでは温度設定も違うだろう。

 昔は夏が涼しいことと、冬の冷えを防ぐために住宅の作りは熱を逃がさないようにしているだろう。


 さて、そんな和美とのデートも8月後半の秋の気配を感じる中で続いたが、冬の厳しい寒さが好きでないのは2人共共通していた。

 浜で波打ち際での2人の戯れにも気迫がなくなってきた。

 浜の奥に引っ込んで、砂の上にビニールシートを敷いて2人で座り込む。

 時々高校生の集団がこちらを覗き込む。

若い女性がアベックを見るとき、必ず男である俺を見てにやにやと笑っている。

 それは妬みを含んだ表情でこちらを見ている。

女である和美の方でなく、俺の方を見ていると感じる。どういう心理なんだろうか。

 女に縁の無さそうな男がカップルでいることを妬むのだろうか。それとも潜在的に何で(俺が)私(女の方)を選ばなかった、と言う抗議の感情を含んでいるのだろうか。

これは20代に入ったカップル女性だと、また顕著である。


 和美がつぶやく。

「ねえ、涼しくなってきたね。秋って嫌。何か寂しげで。でも12月になるとクリスマスだとか冬休みだとか、久しぶりの雪も何か華やかで、諦めがつく」


 俺と大体同じ感覚を和美が言うとおりに感じているようだが、この辺の感覚は他の皆もそうなのだろうか。


「そうかあ、和美もそう思うか。夏が終わると言うか、夏休みも。今は夏休み無いけど、だんだん厚着になっていくのにもね」

 そう答えると和美もまたつぶやく。


「そうなんだよな、学生の時2学期が始まる時期だし、短大でも講義が始まる」


 日曜日の夜と、9月1日はジサツが多くなると言う統計が出たのはそう遠くない前の話だが、もうすでにそんな人をブルーにする時間の循環と言うものが当時からあった。


「社会人になってもそう思うの?」この俺の質問に和美は黙ってしまった。


 しばらくすると言い出す。

「だって、わたしたち付き合うきっかけが7月のファイヤーフォールでしょ。海、夏、ヤシの木って感じでしょ。浩はスキーとかスケートやるの」


 俺は答える。

「そう言えば、スキーもスケートも学校で行くだけかな、このごろは。スケートは小学生の時親に連れられて滑ったな、それくらいか」

 

 俺のスケートはこの町から車で2時間程のところに、小さな湖があり、そこが冬季は完全に凍結するのでスケートリンクとして営業していたのだ。

 スケートの後、スケートリンクから少し離れたエリアにワカサギの穴釣り場があり、そこで釣りにも興じていた。

 スケートリンクもワカサギ釣りもどちらも有料だが、それほど高くないので、よく行った。

 それから、学校の課外授業で参加するようにもなった。ただ、ここではワカサギ釣りはない。


 8月下旬とは言え、冬の雪と氷に包まれた世界を思い出す気にもなれず、それら諸経験を口にしなかった。

 話が冬の話題になりかけたので、2人共さらにしばらく黙ってしまった。

 和美は面白くなさそうだった。

 もう結婚を前提で交際しているが、四季の喜怒哀楽を2人で乗り越えたことはない。

 一体和美は真冬にどんな顔をしているのだろう。

 俺も12月の華やかさに気を取られるが、正月が明け、白銀の世界を見ると時間が長く感じられる。

 熱狂的スキーヤーでない我々からすると、雪に閉ざされると言うのは拷問だ。ただ、自家用車を持つようになって少しは変わってきた。

 そうは言っても、幼い頃や若い頃の育ちと言うのは、その後も引き摺るのだ。

和美はシートの上でうつ向いて黙ってしまった。


 冬を思い出すだけでこれだと、先が思いやられる気がしたが、また和美の肩に手を回して、そっと抱きしめた。

 若い女がこちらを覗き込んで妬みと驚き混じりの、ひきつった笑いを浮かべる。

 後ろのコンクリートの段の上の道を犬の散歩のおじさんが歩いている。少しいつも通りタバコの臭いがする。

 海水浴場の監視のボランティアも巡回している。

 まだまだ浜は活気に満ちている。

そんな中和美が言い出す。


「ねえ、キスしてよ、何だか寂しい」

 俺は困った。8月の海開き時期には浜でキスをしていない。するのは大体部屋か車の中だ。


「ねえ、してよ、嫌なの?」


 またそう言うので、軽く唇をあてがう程度にしようとした。


 若い女も、若い男も声をあげる。

「うわー」

我々のキスを見て反応している。

「あいつらキスしてるぞ、アツアツカップル」

「見せつけてくれるじゃん」

「どうしようもねえなあ~」

非難の声が集中していた。


 恥ずかしかったが和美は本気だ。何人にも見られてると言うのに和美はキスしたまま口を開けて舌を入れようとしている。

 こんなところで興奮は出来ない、和美の顔を俺から引き剥がし唇を離した

 和美は少し陶酔しているが、次第に泣き顔になった。

 そしてまた座り込んだままうつ向いて、2人で落ち込んだ。

 すると後ろから年配の男性の声がする。彼は言う。

「おい、あんたら、兄ちゃんと姉ちゃん、こんなところでイチャイチャするな」


 海水浴場のボランティアの人だ。

和美はうつ向いているが、俺は振り返る。

「はあ、すみません」


 監視員がまた言う。

「ここは子供もいるんだ、迷惑だからそんなことしたらダメだ。今日は帰れ」


 当時はコンプライアンスが緩く、キスをしたくらいで咎められることはないはずだが、考えてみるとそんなカップルを見たことがなかった。

田舎なので恥ずかしくて人前でキスなど誰もしないのだ。

 

 監視に怒られたので、この日この場を解散させたが、和美の落ち込み方が心配になってきた。

 いつもと違う精神状態で2人きりになるのも気が引けた。

 和美は人前でディープキスをしようとしてきたのだ。


 今日は弟が柔道部の夏休みの合宿が終わって家にいる。

 和美を弟に見せて、それで少しは気分が変わるかもしれない。

 家族3人がいる俺の家に向かった。


 和美は家に来ても馴れた様子で俺の家族に挨拶をする。

 交際して1ヶ月ちょっと。

 やっと弟に自慢の彼女を紹介するときが来た。

一階の奥の弟の部屋をノックした。

「建二いるか、久しぶりだな」

そう言って弟を呼び出す。

「おっ、浩、何だ」

 戸を開けて後ろにいる和美に気付いて驚く。

「浩の彼女か、かわいい、お前にもったいねえよ。でも、何か暗くねえ、お前泣かしてねえか」

 和美は振り絞るように言う。

「どうも、浩のフィアンセの高橋です。よろしく」

建二が照れながら答える。

「フィアンセって、もうか、結婚するのか。はあよろしくお願いします。浩の堅物をよろしく」


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