第三話
「トメ、起きろ」
男の声がする。
あたしは何故かその声に聞き覚えがあって、ほっとする。
「起きろというのに。おい、トメ。起きろ」
意識がうっすらと戻ってくる。
まぶしい。
しかし薄目を空けて最初に飛び込んできたもののせいで、あたしは飛び起きた。
人買いがあたしを見下ろしていた。
「お、おはようございます!」
「寝起きの悪い娘だな」
秦は不機嫌そうにそう言うと、杖で枕もとを指した。
「それを着ろ。お前の売り先を決めた」
「え?」
枕もとには、紙袋が置いてあった。
「私は食堂で待っている。食堂はわかるな? そこの湯で体を清めて、着替えたら降りて来い。今来ている
男はそれだけ言うと、ヒョコヒョコと足を引きずって部屋を出て行った。
やっと頭が動き始める。
そうだった。
あたしはあの男に買われて来たのだ。
そしてあたしの売り先が決まったという。
つまり、そういうことだ。
(今日からあたし、客を取らされるんだ)
同時に、昨夜男を介抱したことを思い出す。
口移しで薬を飲ませたことに思い当たり、顔が青くなるのが自分でもわかった。
秦の表情はとても不機嫌そうに見えた。
恥を捨ててやったつもりだったが、間違えてしまったのだろうか。
(いや、)
きっとあたしが「所有物」だからだ。
感謝などされようはずがない。
男はそのくらいのことは当然だと思っているに違いない。
と、違和感に気づく。
なぜあたしは寝台の上で寝ているのだろうか。
(昨日はたしか、男を膝に抱いて寝たはずだけど)
まさか夢だったのだろうか?
しかし部屋は昨日あてがわれた部屋ではなく男の部屋だった。
それに膝と腰に軽い痛みがある。
つまり、あの男があの不自由な足で、あたしを寝台に寝かせたということなだろうか。
わからない。
わからないけれど、今あたしがしなくてはならないことは、男の言う通りにすることだけだった。
紙袋に手を伸ばす。
開けてみると、可愛らしい洋服が入っていた。
「わぁ……」
こんな服が、あたしに似合うのだろうか。
そこまで考えてすぐに理解する。
必要なのは、あたしに似合うかどうかではなく、あたしという商品を高く売りつけることができるかどうか。
値段を釣り上げるために、あたしを飾り付ける必要があるだけだ。
あの男は人買い。
あたしはあの男に買われた商品。
ならば、少しでもあの男の気に入るようにするのがあたしの役目なのだろう。
▽
階下に下りると、男が食事をしていた。
男だけでなく、奥からは人の気配がする。
きっと、昨夜は遠方からの帰りだったので、たまたま使用人がいなかっただけなのだろう。
「あの、着替えました」
あたしが言うと、男は顎だけで席を指す。
顔や体を清め、自分なりに髪も整えてきたが、何も言われなかったところを見るとこれで正解だったようだ。
素直にそこに座るが、眼の前には男の前にあるものと同じ食事が用意してある。
故郷のことを考えると、まるで夢のような食事に見えた。
「食え」
と、男が促す。
「あの」
少し困って、男に言う。
「お箸をいただけませんか」
「む、箸がいるのか?」
「はい、箸以外の使い方を知りません」
「気に入らんか」
「いえ、違います! むしろこんな夢みたいな食事……」
「そう贅沢な食べ物でもないのだがな。お前の故郷は今大変な食糧難だから、こんな見窄らしい朝食でも立派に見えるのだろう」
「……は、はい」
「いいからフォークで食え。作法なんぞ必要ない」
「よろしいのですか?」
「いいと言ってる」
「それでは、いただきます」
あたしは手を合わせ、食事に手をつける。
どれも初めて味わう味で、素晴らしく美味しかった。
故郷の弟達に食べさせてやれたらどんなによかっただろうと、そんなことを思った。
▽
運転手に促され、あたしは車に載せられた。
隣に座る秦は不機嫌そうに外を眺めている。
きっと今から「あたしを買ってくれる店」に向かうのだろう。
もう数時間もすれば、あたしも娼婦だ。
恐ろしかったが――昨日から恐怖しつづけたせいか、「本当に恐怖するのは、実際に客を相手にするときでいい」と、どこか余裕めいた気持ちになっていた。
運転手が、畏まった口調で言う。
「鳴滝様のお屋敷に向かうのは、もう何年ぶりでしょうか」
「前の女が長持ちしているからな。二年ぶりか。まぁ、あの変人と会うのは、そう多くない方が良い」
鳴滝様……それがきっと、あたしの働く店の店主なのだろう。
車はどんどん進み、東京の町並みから離れて山道に入っていく。
運転手が愚痴っぽい口調で言う。
「しかし、こんな都心から離れた山奥などではなく、駅の近くに屋敷を構えれば仕事も楽に動かせるでしょうに、もの好きなものですね」
「そんなことは知らん。それでもまあ、車でならそう遠くもない。そのくらい距離があったほうがやりやすいだろう、あの男の場合」
「左様でございますか。……あと十五分ほどで到着でございます」
あと十五分。
それがあたしに残された時間。
男が言った。
「なぜ、昨日私を助けた」
唐突だったので、あたしは一瞬何のことだかわからなかった。
「あの……?」
「私が死んでいれば自由の身になれたであろうに。なぜ助けた」
男が言っていることをようやく理解する。
男は、なぜあのまま逃げなかったのかと問うているのだ。
「意味など……」
「ぼんやりではあるが、お前のしたことは覚えている」
「あの、すみません……大変失礼なことをしました……」
口移しのことを責められているのだと気づき、あたしは顔を伏せる。
「馬鹿な女だ」
男は不機嫌な声で、責めるようなきつい口調で続けた。
「本ばかり読んでいるからあんな馬鹿なことを
怖い口調だった。
「本当に馬鹿な女だ」
「はい。自分でも馬鹿だと思います。でも、眼の前で苦しんでいる人を放っておくなんて、どうしても出来ません」
「馬鹿だな」
「だから、馬鹿だと」
男はふっと笑い、窓の外を見る。
「そら、あそこがお前の所有者が住む屋敷だ」
遠くには、西洋風に立てられた大きな屋敷が森に隠れて立っているのが見える。
「言っておくが、お前の飼い主はかなりの変人だ。お前の役目は、その男に従い尽くすことだ」
「はい」
変人、という言葉にぞっとする。
だけど変人という言葉が似合うのは、目の前の人買いだって同じではないだろうか。
もしかすると、この人買いですら付いていけないほどの変わった人物なのかもしれない。
「お前は数年前に売った女の代りだ。主人はかなりの変人ではあるが、金持ちだ。俺など足元にも及ばないほどにな。お前にもかなりの高値がつき、俺も儲けることができた」
男は口元を下品に歪めて笑う。
「どんな無茶な要望にも心を込めてお応えするのだぞ。身も、いやさ心までもその男に捧げて、誠心誠意尽くすのだ。よいな」
「はい……」
恐怖心を煽るように男が笑う。
車は開け放された豪奢な門をくぐり、新緑の中を進む。
森を抜けると、恐ろしく大きな洋館があらわれた。
玄関の前に車が横付けされる。
運転手が、先に男の横の扉を開け、次にあたしの横の扉を開ける。
「トメ、来い。こっちだ」
「はい」
秦があたしを待とうともせず、先々歩く。
男は扉に付いた輪をコツコツと鳴らす。
本の挿絵で見たことはあったが、実際に目にしたのは生まれて初めてだった。
しばらくすると扉が開いた。
開いたのはきっちりと着物を着込んだ女中だった。
あたしと同じか、少し上くらいの歳の女性だった。
女中はきれいなお辞儀をして言った。
「お待たせしました、秦様」
「ああ」
「主人が待ちかねております。どうぞ」
恐怖で体をしびれさせながら、後を追う。
靴は脱がなくてよいのだろうか。
しかし男も靴を履いたままだ。つまりこのままでよいのだろう。
不安な気持ちで皆の後ろを付いて歩く。
女中が、ちらりをあたしを見て、にこりと微笑んだ。
「旦那様! 秦様をお連れしました!」
女中が扉をノックして、大声で報告する。
「通してよし! お前は下がれ!」
と、男の怒鳴り声がした。
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