第五話
「旦那様、佐和子です! トメを連れて参りました!」
佐和子さんが大声で扉に向かって言う。
「入ってよし! お前も入れ!」
中からやはり大声で男の声が聞こえる。
扉を開ける。
人買いはすでに居なくなっていた。
「失礼いたします」
「失礼いたします」
佐和子さんがするのを真似て挨拶すると、旦那様はもくもくと煙草の煙を吐きながら、なにか書き物に没頭しておられた。
「トメと言ったか」
旦那様が机に向かったまま仰った。
ガラガラとかすれた、しかしよく通る声だった。
「はい、
そう挨拶すると、旦那様はちらりと顔を上げて、そのあと大声で仰った。
「トメは似合わん! それに人生は留まってはいかん、前に進まねばな。今日からお前は雪(ゆき)だ。先へ行く、行きという意味だ。解ったか?」
「はい」
やはり、あたしの旦那様はかなり変わった方のようだった。
「では雪。この屋敷は人手が全く足りておらん。しっかり働いてもらうぞ。横にいる佐和子が女中頭だ。まずは案内でもしてもらえ」
「解りました、旦那様」
あたしは頭を下げて返事した。
佐和子さんの動きを真似たつもりだったが、これで正解だったのだろうか。
しかし旦那様はそれっきり何も仰られなかった。
▽
部屋を出て、佐和子さんに屋敷を案内される。
思いのほか大きく立派な屋敷だったが、人の気配だけがなかった。
あたしは恐る恐る佐和子さんに訊く。
「あの、あたしてっきり客を取らされるのかと思っていました。ここはそうした店ではないのでしょうか」
「え?」
佐和子さんが少し驚いた顔をして、それから笑い始めた。
何か馬鹿なことを言ってしまったらしい。
「客どころか、そもそもこの屋敷に人が来られることなんてほとんどないわ!」
「そうなんですか?」
「せいぜい旦那様のお仕事の関係で書斎に人が来る程度ね。ほかにお客様と呼べる方は、まずいらっしゃらない」
「それでは、あたしは……」
要するに、あたしは娼婦ではなく
そうであるなら、大勢の男たちの相手をせずにすむだけ、まだ良いと思った。
―――お前にとって良い店を探してやる――
秦の言葉を思い出し、あたしは心の中で感謝した。
「旦那様がどんなご要望を出されるのかは、あたしにもわからないわ。あの通り変人でいらっしゃるから、何を仰るか予測がつかないのよね」
佐和子さんがそう言って、屋敷を一通り案内してくれる。
つまり、ここは彼のハレムなのだろう。
「とりあえず、特にご要望が無い限り、やるべき仕事は掃除や選択、食事の用意など普通の女中と同じ。時に旦那様が突飛なことを仰るけれど、それにお応えすることも大事な仕事ね。雪さんもそのつもりで」
「……はい」
「雪さん」と呼ばれても、自分のことのようには思えなかった。
一通り見終わり、あたしはこの屋敷の構造をおおよそ理解することができた。
どこも綺麗に手入れされており、女中としての彼女達がいかに真面目なのかを物語っていた。
「もうすぐ昼食のお時間よ。食堂の場所はわかる?」
「はい、覚えました」
「よろしい。では、最初の仕事よ。旦那様を食堂までお呼びしてちょうだい」
「はい」
「それじゃ、がんばっていらっしゃい」
佐和子さんが、笑ってあたしの背中を軽く叩いた。
▽
「旦那様、おられますか」
書斎の前に立ち、あたしは旦那様をお呼びした。
しばらく待つが返答がない。
もしかして違う場所におられるのかもしれない。
と思ったが、ふと佐和子さんが大きな声を張り上げていたのを思い出す。
(もしかすると、耳が遠くていらっしゃるのかも)
あたしはあまり声が大きい方ではないので、がんばって大声でお呼びする。
「旦那様、おられますか!」
「聞こえん!」
中から不機嫌そうな声が聞こえてくる。
仕方なく、さらに大きな声を張り上げる。
「旦那様、おられますか!」
「いなければ声がするわけがなかろう!」
「旦那様、お食事のご用意が整いました! 食堂までお越しくださいませ!」
「何を言っておるのかわからん! もっと大きな声で言え!」
どうにも変わった人物だった。
あたしは少し意地になり、怒鳴り声に近い大声を出す。
「旦那様! 入ってもよろしいでしょうか!」
「許す! 入れ!」
ようやく扉を開ける許可をいただき、あたしは部屋に入る。
佐和子さんの身振りを思い出しながら丁寧に挨拶する。
「何の用だ、雪」
「お食事のご用意が整いました。食堂までお越しくださいませ」
「まだやりかけの仕事がある。しばらくそこで待て」
「はい」
旦那様に言いつけられ、あたしはそこに突っ立ったまま待つ。
「長くかかるかもしれん。座ってよい」
旦那様は一度も顔を上げようとはなさらず、ただ声だけで指示を出される。
座ってよい――これは「座れ」と言う意味なのか、「座りたければ座れ」と言う意味なのか。
とっさには解らなかったので、しばらく考えてから長椅子に座った。
時間だけが過ぎていく。
書斎には時計がなかった。
しぃんと静かで、万年筆を滑らす旦那様の紙をめくる音や、時々衣擦れの音だけが響く。
このままでは、せっかくのお料理が冷めてしまう。
「旦那様、お食事が冷めてしまいます」
「良い」
「でも、せっかく佐和子さんたちが用意を……」
「雪」
旦那様はあたしの言葉を遮られた。
「お前に俺を呼びによこしたのは佐和子か?」
「はい」
「では、待て。佐和子はそんなくだらない失敗はすまい」
「え?」
「よい。とにかく待て」
旦那様は言葉を切って、またひたすら万年筆を動かす。
これだけ大きなお屋敷に住んでいるのだ。きっと色々とお忙しいのだろう。
でも、それならなおいっそ早めにお食事をお済ませになるほうがいいような気がする。
「旦那様」
「うるさい」
「うるさくとも、ご昼食の用意は整っているようですから。冷めたお食事では美味しくないでしょうし、それにお体に障ります」
旦那様は驚かれた様子で顔を上げられた。
「なかなか気丈な娘だな。この俺が怖くないのか」
「怖いです」
あたしは正直に答える。
旦那様は一瞬硬直されたあと、大声で笑い始められた。
「そうか、怖いか!」
笑い声は大きく、広い書斎が声で埋め尽くされているように感じた。
「気に入った! よし、もっと怖がらせてやろう!」
「えっ……」
「だが、そうだな。ともかく今は食事にするとしよう」
そう言って立ち上がると、案内するまでもなく、足早に歩き出された。
あたしは付いて行くのが精一杯だった。
▽
食堂の扉は、なんとかあたしの手で開けることが出来た。
これで旦那様がご自身で扉を開けられたりしたら、それはもうあたしは女中として失格であるように思う。
呼びに行かされてから、すでに半時以上経っていた。
おずおずと中に入ると、佐和子さんともう一人の女中、そして召使らしき男性が一人立っていた。
三人は旦那様の顔を見たとたん、ひどく慌て始めた。
佐和子さんが奥の扉に飛び込んで行った。
「旦那様が到着されました!」
奥からそんな声が聞こえてきた。
初老の男性の召使が、恐縮したように近づいてきて言った。
「あの、旦那様、申し訳ありません。もう間もなくお食事の準備も整うのですが……その」
「解っている。こんなに早く来るとは思わなかったのだろう?」
旦那様は肩をすくめ、椅子に腰を下ろされた。
「この女が、食事が冷めるからとうるさくてな。後にしろと何度言ってもきかぬから、仕方なくこうして書斎から這い出てきた」
「あの、す、すみません……」
あたしはどうやらとんでもない勘違いをしていたようだった。
旦那様は、お呼びしてもすぐに席をお立ちになることはまずない方なのだろう。
佐和子さんたちはそれを見越して、旦那様が席に着かれる時間を見計らって食事を用意しているようだった。
そんなことも知らずに、無理やり旦那様を引っ張ってきてしまった。
とんでもない間違いであったらしい。
それに気づき、どうして良いかわからず小さくなっていると、
「ん? 気にするな、雪。たまにはこうして無駄な時間を過ごすのもよかろう」
「……申し訳ありません」
それなら、せめて台所を手伝いに行こうと思い、旦那様に頭を下げる。
しかし、旦那様はそれを許されなかった。
「いかん。まだ不慣れなお前が、この状況で台所に飛び込んだとて邪魔なだけだ」
「しかし……」
「良い。今は俺の横に座って待て」
……旦那様の隣の席。
皆が働いている中、そこに座るのは勇気が必要だ。
「よろしいのでしょうか……」
「構わん。何なら命令しよう。座れ」
きっと、お気持ちは変わらないだろう。
あたしは観念して、旦那様の横に座った。
料理が出てくる。
「お待たせ致しました」
旦那様の前にご馳走が並ぶ。
思わず故郷での普段の食事を思い出す。
あたしは弟達を思い出し、切なくなる。
今頃、あのお金で少しは美味しいものを食べていてくれればいい。
このまま座っていてよいのか居心地の悪さを感じながら、皿が並ぶのを眺める。
不思議なことに、旦那様の前に並ぶのと同じ料理が食卓に並べられていく。
あたしの前にも、だ。
そして、召使達が平然と椅子に座った。
食事が始まった。
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