第四話

 扉をくぐると、部屋は書斎だった。

 壁一面が本棚になっていて、上の方の本を取る為の梯子まで必要なようだった。


(村の図書館なんかよりも、ずっと立派だ……!)


 思わずそんなことを思った。


「座れよ、秦」


 奥の立派な椅子にだらしなく座った男が、人買いに言った。


「御久しゅうございますな、鳴滝殿。もう二年ぶりになりますか」

「ああ、依子がつれて来られてからだから……そうだな、そのくらいにはなる」


 長椅子に座りながら、秦が答える。

 あたしはどうしていいかわからず、しかたなく立ったままでいることを選んだ。


 その男は、想像していたよりはずっと若い、髪が乱雑に伸びた男だった。

 背が高く、痩せぎすだががっしりとしており、洋館に似つかわしくない地味な着流しを着ている。

 眉間には深い皺が刻まれていて、少しこけた頬と無精髭もあいまってとても恐ろしい方に見えた。


 ───この人が、私の所有者。


「その娘か、秦」

「左様で、鳴滝殿」


 鳴滝様と呼ばれた男があたしをじろりと見る。


「なかなかの器量よしだな。条件は満たしているんだろうな」


 鳴滝様が、ジロジロとあたしを品定めする。

 あたしは少しでも人買いに用意された服に負けないよう、背筋を伸ばして立って見せた。


「まだ一度も客を取っていない生娘、でしたな。確かに満たしております。ほんの一昨日、貧しい農家より買い取ってきたところで」


(まだ一度も客を取っていない生娘───そういうのがお好きなのかしら)


 よほどの潔癖症なのか。

 それとも、初めて男性を受け入れるときはすさまじく痛いと聞いたことがあるから、もしかするとひどく残忍な性格の方なのかもしれない。


 いらないことを想像し、ぶるりと震えた。


「ふむ……よし、娘!」

「はいっ」


 いきなり鳴滝様があたしを呼びつけた。


「お前、この屋敷で働きたいか?」

「えっ?」


 働きたいか、などと訊かれても、あたしにそんな選択の自由はない。

 しかし秦間屋の主人に迷惑をかけるわけにはいかない。

 あたしははっきりと答えた。


「はい、働きたいです」

「うん? なかなか良い返事をする。よし、娘、お前を買おう」


 あっさりと男が言う。


「秦間屋。この娘、買った」

「ありがとうございます」


 秦間屋が深々と頭を下げる。

 すると男が大声を出した。


佐和子さわこ! 佐和子!」


 あまりの大声に、思わず飛び上がりそうになった。


「はーい、ただいま!」


 遠くから、小さく声が聞こえる。

 すぐに、パタパタと足音が聞こえ、歳の若い女中が小走りでやってきた。

 はじめに会った、玄関の扉を開けてくれた女中だった。


「旦那様、御用ですか」


 佐和子と呼ばれた少女が言った。


「佐和子。この娘を買った。お前が教育係だ」

「かしこまりました、旦那様」


 とても綺麗な仕草で女中が頭を下げる。


「おい! 何をぼさっとしておるか、トメ。旦那様に礼を言わんか!」


 人買いに促され、あたしは慌てて頭を下げる。


「旦那様、ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」

「うむ、言葉遣いもしっかりしてるな。秦、なかなかいい娘を連れてくるじゃないか」

「恐縮です」

「さあ、とっとと出て行け。俺は秦と金の話をする」

「はい、旦那様」


 佐和子さんはそう言って、あたしを小さく手招きする。


「ほら、あなたもあたしと同じように挨拶して」


 小声でそう言って、佐和子さんがもう一度丁寧に挨拶をしてみせた。


(こういうのがお好きなのかしら)


 そんなことを思いながら、あたしは真似をして頭を下げた。



 ▽


 佐和子さんについて、朱の絨毯の上を進む。

 屋敷は古いけれどよく手入れされた洋館で、一体どれほどの広さがあるのか不安になった。


「あなた、名前は? 何歳?」

「トメと申します。歳は十七になったばかりです」

「ふうん。言葉が綺麗だね。東京の人?」

「いえ、山形です」

「へぇ! すごい、訛りがないのね。あたしは佐和子、って呼ばれてる。歳は十九……本当は違う名前なんだけどね」

「え?」

「旦那様が、あたしの顔を見て『この顔は佐和子だ、佐和子に決めた』って勝手に変えちゃったんだ」

「はぁ……」


 聞きしに勝る変人らしい。


「だからきっと、あなたも勝手に名前変えられちゃうかも。ここではあなたを入れて三人の女中、二人の男性の使用人がいるけれど、みんな旦那様が気分で付けた名前で呼ばれてるね」

「気分で、ですか」

「変わった人だと思ってるでしょう」

「……はい、少しは」

「実際変わってるわよ。まぁ、そのうちに解るだろうけど」


 そう言って、佐和子さんが屋敷の一番奥の扉を開ける。


「ここからは女中部屋ね。男の使用人は入って来ないから安心して。もちろん旦那様も」

「えっ、旦那様もですか?」


 あたしが驚いた顔をすると、佐和子さんはクスクスと笑って言った。


「入っちゃいけないわけじゃないのだろうだけれどね。でも、旦那様は書斎と寝室と、あとは食堂くらいにしか足を運ばれることはないかな」

「……あ、あの、あたしはこれからどうすればよいのでしょうか」


 ずっと不安に感じていることを、あたしと同じ境遇であろうに不思議と明るい佐和子さんに尋ねた。

 しかし佐和子さんは肩をすくめて、


「それは旦那様がお決めになることね。あたしと同じか、もしかするとまったく違うご要望があるかもしれないけど」

「そうですか……」


 そういうことではなく、いつ、どんな風に客を取らされるのかを訊きたかったのだけれど、さすがにそういうことは質問しにくい。


「不安?」

「……はい」

「ここはこんな場所だし、旦那様もかなり変わった方だし、とても安心してとは言えないけれど……あたしは新しいお友達が出来てうれしいわ」

「は、はい! あたしも歳の近い方がいて、とても嬉しいです」


 あわてて頭を下げると、佐和子さんは明るく笑った。


 ▽


 あたしの部屋だと言われて通されたのは、ずいぶん大きな部屋だった。

 質素だが寝台もあって、それが一人部屋であることを示していた。


「これからは、仕事の時以外はこの場所で過ごすこと。週に一度はお休みもいただけるけど、こんな山奥だと外に出かけることもないでしょう?」

「はい……あの」


 おずおずと質問する。


「こんな立派な……不思議です。あたし、きっともっと見窄らしい場所に送られるものだと思っていました」


 これでは、故郷の家よりもずっと贅沢だ。

 それともここはそんなに高級な娼館なのだろうか。


「そう言われてもね……これより見窄らしい部屋がないから。部屋は余っているし、わざわざ見窄らしい部屋を作る必要もないでしょうしね」

「そうですか……」

「さぁ、そこの箪笥に仕舞われている仕事着に着替えて。自分に合った大きさを選んで」

「はい。わかりました」


 そして、あたしは佐和子さんが着ているのと同じ、仕事着を着込む。

 前掛けを付けて襷がけし、立派な姿見に映してみると、どう見ても普通の女中にしか見えなかった。


(こういうのがお好きなのかしら)


 殿方のお好みは、あたしなどには理解できない。

 もしかすると、女中なんていう労働階級の女がお好みなのかもしれない。


 着替えて部屋を出ると、佐和子さんが鼻歌を歌いながら待っていた。

 不思議と暗さを感じさせない、優しい感じのする人だと思った。

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