第四話

 宮川さんが一礼して退室すると、食堂には旦那様とあたしだけが残った。


 旦那様は袂から煙草を取り出すと、火をつけて深く吸い込む。

 椅子に浅く座り直し、足を投げ出すように背中を背もたれに預け、ふーっと煙を吐いた。


 その場を動かないあたしを怪訝に思われたのだろう。


「何をしておるか、雪……いや、確か名はトメと言ったか」


 旦那様は天井を見つめながら仰った。


「お前も解雇する。これまで俺の無茶な要望によく応えてくれた。退職金は弾む。田舎に帰れ」


 その言葉を聞いて、あたしは田舎の両親や弟たちの顔を思い浮かべる。


 ───留よぉ……本当に、本当に悪れごどなぁ……オレど父ちゃんどご、許してけろなぁ───


 だからこそ。


「あたしの名前は雪です、旦那様」

「……何?」


 あたしの言葉が意外だったのか。

 旦那様は怪訝そうな顔であたしを見た。


「何を言っておる」

「雪は旦那様のものです。雪は、どこへも参りません」


 旦那様はむっと顔をしかめられ、煙草をひと吸いすると、ふーっと煙を吐き出した。


「馬鹿なことを言うな。お前らしくもない」

「旦那様こそ何を仰いますか! 雪は今、とても怒っております」

「怒っておるだと?」


 口答えされたことに驚いたのか、旦那様は不機嫌そうにあたしを睨む。


「雪は、旦那様にお仕えしているのです。戦争が始まるからといって、それが変わるわけではございません」

「ふん……何も知らぬ小娘が」


 顔をふいと逸らして、旦那様はしばらく考えたあと、ぽつりと言った。


「日本は負けるだろう」


 言葉とは裏腹に、その口調には確信めいた響きがあった。


「この国は、これから混乱の時代を迎える。お前が想像もできないような悲惨な状況だ。そんな中、主人も使用人もなかろう。誰もが自分のことで精一杯だ」


 旦那様は「無論、この俺もな」と言ってまた天井を仰ぎ、煙草を口に運ぶ。

 煙草の灰がそっと落ちた。


「そんなこと、まだわからないではないですか」

「わかる。もはやこの流れは止まらぬ。負けるのだ、雪。日本は負ける」

「日本は神々に守られた国です。たとえ戦争になろうと、負けるなどと……きっと、神風が吹きます」

「神風は、もう吹かぬ」

「なぜですか」

「信仰を失ったこの国のために、なぜ神が動くか。それに雪、他の国々には神がいないとでも思うか? その傲慢さが、この状況を生み出した」


 あたしは旦那様の仰ることが理解できず、首を横に振って否定した。


「旦那様の仰る通り、戦争が始まったとしても、日本はきっと勝ちます」

「いや、負ける。東京も跡形もなくなってしまうやもしれぬ。終戦後、この国が残っているかも怪しいものだ」

「それでも!」


 あたしは精一杯の大きな声で言った。


「たとえ、日本が負けたとしても……今は関係ありません! 雪は旦那様のものだと言っているのです! 雪を、お捨てになるおつもりですか!」

「やかましい!」


 旦那様も大声で怒鳴られた。


「解雇すると言っただろう! それに、泣く女は嫌いだと言ったはずだ!」

「旦那様が泣かせたのではないですか!」

「女衒に返されたいか、雪!」

「旦那様が命じられるのでしたら、雪は女郎屋だろうと炭鉱だろうと、どこへでも参ります!」

「何を馬鹿なことを!」

「馬鹿は、旦那様です! もし雪をお捨てになりたいのなら、どうぞ売り飛ばすなり、殺すなりしてください!」

「雪っ!」

「聞きません!!」


 気づけば、あたしは旦那様の腕に縋り付いていた。

 旦那様は怒りの形相であたしを睨みつけ、あたしも負けじと旦那様を睨んでいた。

 お互い怒りと興奮で息も荒く、あたしはといえば体全体がぶるぶると震えていた。


 長い長い時間が過ぎる。

 旦那様は何も仰らず、ただあたしの啜り泣く声と、柱時計の音だけが響いていた。

 いつも賑やかであったこの場所が、こんなにも寂しい。

 そう思うと余計に悲しくなって、あたしは泣き止むことができなかった。


「……強情な女だ」

「……旦那様こそ」


 旦那様はため息をつきながら方を落とした。


「なぜ俺なんぞのために、そうまでする」

「わかりません」

「まさか、俺に惚れているのではあるまいな? 俺は小娘には興味がないぞ」

「そんなことのために言っているのではありません」

「ではなぜだ」


 問われて、あたしは一瞬迷った。

 自分でもよくわかっていなかったのだ。

 しかし、家族の顔を思い出すと、すぐに答えが見つかったように感じた。


「旦那様は、あたしを必要としてくださいました」

「だからどうした」

「故郷へ帰れば、家族は喜びましょう。もちろんあたしにとっても、それはとても嬉しいことです」

「だから、帰れと言っているだろう」

「しかし」


 あたしは自分の中にある感情を、どのように伝えるか少し迷った。

 迷った挙句、ようやく口にした。


「雪は、故郷では何の役にも立たない小娘でした」


 だから、あたしは二百円で売られた。


「誰もあたしを必要としませんでした」


 いいえ、きっとあたしは、役に立たない自分を、自分で売り飛ばしたのだ。


「あたしが売られたのは、あたしが役立たずだったからです」

「馬鹿なことを言うな。子供というのは、ただそこにいるだけでも十分なものだろう」

「しかし旦那様は、ただそこにいるだけではなく、役に立つあたしを大切にしてくださいました」

「馬鹿なことを……」


 旦那様は困惑されている様子だった。


「お前自身はどうなのだ。故郷に帰りたくはないのか?」

「帰りたいですとも。しかし、雪は旦那様のものだと申し上げたはずです」

「……ならば、妾の仕事もこなすか?」

「もちろん、旦那様がこんな『小娘』に本当に興味がおありならば」

「馬鹿馬鹿しい。言ってみただけだ。誰がお前など」

「雪には、殿方のお好みはわかりかねます。でも、身の回りのお世話くらいはお役に立てます。少しでもお役に立てることがある間は」


 あたしは、旦那様の目を見ながら、できる限りはっきりとした口調で言った。

 旦那様は、都合が悪くなると聞こえないふりをされることがあるから。


「雪は旦那様のものです。旦那様から離れるつもりはございません」


 旦那様は呆れたように天井を仰いだ。

 もう煙草に火をつける気にもならないらしい。


「負けた」


 旦那様がぽつりと言った。


「ならば、これからも俺の横で世話をすればいい」

「かしこまりました」

「ただし、何の見返りも期待するなよ。給金もなければ、俺が親切にするとも思うな」

「存じております」


 あたしがはっきりと答えると、旦那様は先ほど書斎で目覚めた時のように、ふっと目だけ笑って、たった一度、あたしの頭を撫でてくださった。

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