第三話
「まもなく戦争が始まる」
その言葉に、全員が何も言えずに固まった。
旦那様が目を覚まされたことでどこか浮ついた雰囲気だったのが、一瞬で凍りついた。
しかし、続く言葉で、さらに絶望に突き落とされた。
「よって、俺はこの屋敷を売り払う」
旦那様はいつもと何も変わらなかった。
「本日限り、お前たちを解雇する。皆、自分の家に帰れ。旅費と退職金は出してやる」
淡々と事実だけを口にする旦那様の口調はどこか冷めていて、まるであたし達を突き放すかのようだった。
頭が真っ白になった。
まるで現実感がなかった。
これはきっと夢に違いないと、どこか冷静に見ている自分がいた。
そうだ。旦那様がそんなことをおっしゃるはずがないのだ。
恐るおそる他の使用人たちへと目をやると、佐和子さんと新庄さんが真っ青になっていた。
スエさんも驚いた様子で目を見開いていたが、宮川さんはいつもとあまり変わりがないように見えた。
誰も旦那様の言葉に応えることができないでいるようだった。
そんな様子が気に食わないのか、旦那様は眉を顰めた。
「なんだ、お前達。家に帰れるのだぞ? 嬉しくないのか?」
その言葉に、佐和子さんがビクリと怯えるように震えた。
しかし、そんなことにはお構いなく、旦那様は不機嫌そうに言葉を続けた。
「戦争になれば、東京は焼け野原になるだろう。お前達の田舎がどうなるかまではわからぬが、少なくともここよりは安全なはずだ」
とても冷たい口調だった。
「この屋敷も売り払う。そうなれば、お前達を連れて回るわけにもいかん。当然守ってやることも不可能だ」
やってもらうべき仕事も無くなるしな、と旦那様は淡々と仰った。
誰も、何も口にしなかった。
ただ信じがたく、いきなり目に前に突きつけられた現実を受け入れられずにいた。
裏切られた。
見捨てられた。
寂しい、悲しい、そうした空気が流れていた。
「以上だ」
言うべきことを言い尽くしたのだろう。
旦那様はいつもの自分の席に座られた。
まるでいつも通りの表情に見えた。
「わ、私は」
しばらくして、ようやく一つ声が上がった。
新庄さんだった。
「私は、旦那様に喜んでいただくためだけに生きております」
「ありがたい話だ。だが、戦争が始まればそれどころではあるまい」
「それでも、食事は必要でしょう。それに、東京が焼け野原になるなどあり得ないことです」
「そうですとも」
続いて声を発したのは宮川さんだった。
「我が国は世界に轟く列強国です。何を恐れることがあるでしょうか」
「宮川。将校との議論を知るお前だけは、薄々わかっているはずだ」
「何を、でしょうか?」
「今、日本がどれほど危うい立ち位置でいるかを、だ」
ああ、きっと宮川さんは、この期に及んで、旦那様の助けになろうとしている。
この疑問は、宮川さん自身ではなく、他の使用人のために口にしているのがわかった。
「それほど危ない状況なのですか」
「そうだ。こうなることはわかっていた」
「なぜそんなことに」
「話せん。守秘義務がある。だがそれを説明したとて、お前たちに理解はできんだろうよ」
旦那様は少しだけ感情を表に出して、忌々しげに眉をひそめた。
「無論、止めようとはしたがな」
「何をでしょうか」
「暴走をだ。過信といってもいい。一部の勢力に国家全体が引きずられることがないように」
だが無駄だった、と旦那様は仰った。
その言葉には無力感が感じられた。
「もはや止まらん。来年か、さらに次の年か……おそらく、いや、間違いなく戦争は始まる」
「しかし、これまで日本は負けたことがありません。きっと……」
「宮川」
旦那様は宮川さんの言葉を止めた。
「そこまでにしろ。状況を説明することはできんし、覆らん。無論、俺の決定もな」
「旦那様!」
絞り出すように小さく叫んだのは新庄さんだった。
「どうか、おそばに」
「駄目だ」
「では、お食事はどうされるのですか」
「東京だぞ、食うものくらいどうにでもなる。今のうちはな」
「では、それを私が」
「要らん」
突き放すような旦那様の言葉に、新庄さんはぶるりと震えて「なぜ」と一言つぶやいた。
「簡単にいえば、これからの生活に、お前達の存在が邪魔になるのだ」
「……あ、ああ……」
新庄さんはゆらりとふらつき、椅子に座り込んだ。
「新庄。解雇する。これまでよく尽くしてくれた。退職金は弾もう。地元で達者で暮らせ」
その言葉に、新庄さんは顔を覆って、涙声で一言、「はい」とだけ震え声で答えた。
▽
新庄さんが「荷物をまとめて参ります」と言ってフラフラと退室したあと、か細い声が響いた。
「だ、旦那様……あたしは……」
その声は佐和子さんだった。
見れば、その顔は涙に濡れていて、目が真っ赤になっていた。
きっと、いつも気丈に振る舞っているのも、どこか大人びて見えたのも、女中頭としての矜持だったのだろう。佐和子さんの泣き顔は、普段よりもずっと幼く見えた。
何度も首を横に振って、受け入れ難い現実を追い払おうとしているかのようだった。
「何だ、佐和子。何を泣く?」
旦那様の口調は、興味を失ったかのように冷たかった。
「お前、この屋敷に来てすぐの頃、いつも『
「……ご存じだったのですか」
「宮川から聞いていた。これまでついに休暇を与えてやることはできなかったが、良い機会ではないか」
「あたしは……っ!」
佐和子さんは子供のように顔を覆って、激しく首を横に振り続ける。
「どうかっ! お見捨てにならないでください!」
「無理を言う。第一、屋敷がなくなれば、お前の仕事も無くなるだろう」
「でも……」
「それに、わすれたか? 俺は泣く女は嫌いだ。人買いに返品されたいか?」
その言葉を聞いて、佐和子さんはびくりと立ちすくんだ。
「……もう、どうあっても、旦那様のお力にはなれないのですね……」
「そうだ」
「……旦那様」
佐和子さんは泣き顔のまま、無理やり笑って見せた。
「あたし、旦那様のお役に立てましたか?」
「ああ、十分だ。あの日、お前を買ったのは正解だった」
「……もし、旦那様が買ってくれなかったら、あたしは今頃どうなっていたかわかりません」
「だが、色々無理をさせた。良い主人でなくてすまぬな」
「本当に、あたしはもう旦那様のものではなくなってしまったのですね」
「ああ。解雇だ、佐和子。お前の働きには満足している。退職金は弾むから、故郷の家族を楽にさせてやれ」
「はい。今まで、本当に、ありがとうございました」
佐和子さんはとても丁寧に、長く、深く深く頭を下げると、すっと綺麗に背筋を伸ばして、部屋から出ていった。
扉が閉められた途端、わぁっと幼子のような鳴き声が聞こえてきた。
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