第二話

 早朝、砂糖入りの珈琲をお持ちすると、旦那様が椅子からずり落ちる格好で倒れていた。


「旦那様!?」


 珈琲の盆を絨毯に落とし、駆け寄った。

 旦那様はひどい顔色をしていた。

 ここ数日の間にずいぶん痩せておられた。

 きっと、ほとんど一睡もされなかったのに違いない。


「新庄さん! 宮川さん! 旦那様が!」


 あたしが叫ぶと、すべての使用人が慌ただしく書斎にやってきた。


「ひ……!!」

「おおっ! 旦那様!」

「旦那様! 旦那様!」


 全員が顔を青くした。

 佐和子さんは真っ青な顔で立ちすくんだ。


 宮川さんが、一つ深呼吸して旦那様の側へやってくる。

 手を握り、首で脈を測る。


「疲労だろう。もう、まる四日も睡眠を取っておられないはずだから」


 その言葉に、皆ホッと息を吐いた。


「しっかりとお休みになれば良くなられるだろう。新庄、スエ、長椅子に旦那様をお運びしろ」


 宮川さんの指示で、力仕事に慣れた使用人が旦那様を動かした。

 揺らさないようにそっと移動させてはいるが、旦那様は眉間に皺を寄せたまま、苦しげな表情だった。

 毛布をおかけし、なるべく音を立てないように注意が払われた。

 カーテンが引かれ、書斎は薄暗くなった。

 非力で力仕事に向かないあたしは、コーヒーで汚してしまった絨毯を片付けた。


「……お雪ちゃんは、旦那様のおそばに着いていて差し上げて」


 立ちすくんでた佐和子さんが言った。

 真っ青で、その声は震えていた。


「目を覚ましたときにお雪ちゃんがお願いすれば、きっと今度こそちゃんとしたお食事を取って下さるわ。あたしは新庄さんに粥を炊いてもらって、いつでもお食事できるよう、準備をしておく」

「はい。わかりました」

「旦那様のこと、お願いね」


 佐和子さんは悲しげにそう言ってあたしの手を軽く握った。


「お願い」


 もう一度そう言って、佐和子さんは書斎から出て行った。


 ▽


 書斎に、旦那様と二人になった。

 旦那様は眉間に皺を寄せたまま、ほとんど動かれない。

 よほど疲れているのだろう。それはもう深い深い眠りだった。

 もし胸がゆっくり上下していなければ、天に召されたと勘違いしそうなほどに静かだった。


 あたしは旦那様が目を覚まされないのをよい事に、こっそりと泣いた。

 何もできない自分が悲しくて、役立たずな自分が恥ずかしくて、静かに泣いた。


 ただ時間だけが過ぎてゆく。

 何度か使用人たちが旦那様の御様子を見に書斎を覗きに来たが、眠られていると伝えると、すぐにそっと出て行った。


 あたしはふと、腕を揉ませていただこうと思いついた。

 いつも腕を摩っておられた旦那様が、もう四日も一睡もせずにペンを持っておられたのだ。その辛さはきっとよほどのものであろうと思った。


 旦那様を起こさぬよう、腕をそっと取り出して驚いた。


「なんて、細い」


 旦那様の腕は、ひどく痩せ細っていた。

 痛々しかった。


 あたしはまたこっそりと涙しながら、起こさないように、そっと旦那様の腕を揉んだ。


 ▽


「雪、泣いておるのか」


 旦那様が、薄目を空けてあたしを見ていた。


「旦那様! お気づきになりましたか」


 旦那様の声がこれほど嬉しいとは。

 しかし、旦那様が倒れられてから、まだほんの四時間ほどしか経っていないことに気づく。


「もう少し、お休みになってください、旦那様」


 あたしがお願いすると、旦那様は少しだけ笑って、


「俺の問いに答えろ。泣いているのか、と訊いているのだ」


 と、そう言った。

 弱々しくても、いつもの旦那様の口調だった。


「見ればおわかりになるでしょう……雪は、旦那様がお倒れになってからずっと泣いておりました」

「馬鹿な娘だ。俺が倒れて、なぜお前が泣く必要がある」


 そう言って、涙で崩れて汚くなったあたしに手を伸ばされた。

 何をされるのかと思ったが、そっと一度だけ、あたしの頭を撫でてくださった。

 旦那様に触れられるのは、初めてのことだった。


 ――女は苦手だ。

 ――人に触れられるのに、慣れておらんのだ。


 きっと、旦那様にとっては勇気の必要なことだっただろう。

 でも、嬉しさよりも不安のほうが大きかった。


「雪は、もし旦那様がお亡くなりにでもなったらと、とてもとても恐ろしかったのです」


 旦那様は珍しく、穏やかに、あたしの言葉を聞いてくださった。

 いつものように、「俺が死ぬとは。縁起でもないことを言う奴だ」と、怒鳴ってくれるのならどんなによかっただろう。

 どうしようもなく悲しくなって、とうとううめき声を出して泣いてしまった。

 ひどく汚く、みっともない顔をしていることはわかっていたが、本当に本当に悲しかったので、旦那様に泣き顔をそのまま見せて、隠すこともやめた。


 ようやく落ち着いてきた頃、旦那様が仰った。


「雪。今すぐ、食堂に全員を集めろ」

「はい。すぐに」


 あたしは涙をぬぐい、旦那様に一礼して走った。


「旦那様が目を覚まされました!」


 あたしがそう叫ぶと、召使達が一人残らず話を聞きに集まってきた。


(旦那様は、まるであたしたちの父親のようだ)


 あたしはそんなことを思った。


「旦那様が、食堂に全員集まるようにと仰ってます」


 あたしが言うと、皆は嬉しそうに小さく歓声を上げた。

 旦那様がお食事されることが、本当に嬉しいのだ。

 佐和子さんと皆川さんとは足早に食堂に向かい、新庄さんとスエさんも台所へ向かった。


 久しぶりの、一家揃っての食事だ。

 あたしは旦那様をお呼びするために書斎へ向かう。

 扉を開けると、旦那様はもうしゃんと立ち上がっておられ、


「揃ったか」


 そう言って、あたしに振り返った。

 窓から差し込む光の所為で、旦那様のお顔はよくわからなかった。

 その影は思ったよりも細かった。

 どきりとしたが、顔には出さなかった。


「揃いました。新庄さんが粥を用意しています」


 あたしが言うと、旦那様は少し笑って


「新庄も食堂にいてくれるとありがたかったのだが。まぁよい。粥が出るまで、食堂で待つとするか」


 そう言って、すぐに歩き始めた。

 よほどお疲れなのか、歩く速度も幾分遅く感じた。


 食堂につくと、皆が立ち上がって、嬉しそうに挨拶をした。

 旦那様は面倒くさそうに手だけで皆に座るように指示する。

 しばらくすると、新庄さんが粥を盆に乗せて、食堂に入ってくる。

 これで、この屋敷の者は全員だった。


 旦那様は仰った。


「すまなかったな。どうしても急げと客に言われたので、つい無理をしてしまった」


 皆は慌てて「おやめください」「とんでもないことです」などと言ったが、旦那様はそれを手で制して、


「お前たちに、話しておきたいことがある。新庄。お前も座れ」

「はい、旦那様」


 皆、言われるがままに席に座る。

 新庄さんも粥を置き、あわてて席に座る。

 あたしも座ろうと思ったが、旦那様が前に立っておられるので、仕方なく旦那様の後ろで控えていた。


 そして、旦那様のはゆっくりと口を開いた。

 その言葉に、あたしも含めた使用人達は全員凍り付いた。

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ロタチオン カイエ @cahier

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