第三章

第一話

 旦那様が、もう四日も書斎からお出にならない。


 ▽


 ある日のことだった。

 お屋敷に立派な黒い車が何台も停まったかと思うと、軍服を着た男たちが旦那様に話があるといって、書斎へと案内させられた。

 お客様がたは勲章を沢山つけており、政府の権力者であることを自ら誇示していた。


 旦那様は、男たちを見たとたんに不愉快そうな顔をして、挨拶もせず煙草に火をつけられた。


 ▽


 何かあればすぐに動けるように、あたしは書斎扉の前で控えていた。

 書斎からは、旦那様の怒鳴り声が何度も響いた。


「"――に意見を求めてみよ!"」


「"現実を見よ! 貴殿らの近視眼的な視野は話にならん!"」


「"閣下はそれを由とされたのか!?"」


「"本当に理解ができんのか!"」


「"国を滅ぼすつもりか!?"」


 何の話かはわからなかった。

 わからなかったが、お客様の声が聞こえないところを見ると、旦那様が一方的に叱り付けているようだった。


 あたしは恐ろしくて震えながら待っていた。

 旦那様の激昂する声も恐ろしかったが、扉越しに漏れ聞こえてくる言葉にどこか不吉なものを感じたのだ。


 ずいぶん長い時間が過ぎた。


「"雪!! 客人がお帰りだ!"」


 名を呼ばれて、ハッとした。


「はい!」


 扉が開いたとたんに、朝靄のように煙草の煙が流れ出てきた。

 これは旦那様がとてつもなく不機嫌である証拠なので、あたしは震え上がった。

 お客様がたは、最後に旦那様に敬礼したが、旦那様はそれを見ていなかった。


 書斎の扉が閉まると、お客様の一人が小さくため息を吐いた。


「……すまない」


 それは、誰に聞かせるためのものでもなかった。

 だが、他の客は機嫌を損ねたようで、肩を震わせている。


「無礼な。あんな男に頼らねばならぬとは!」

「そう言うな。それに鳴滝殿の言葉は正しい――もはや止められぬだけで」

「しかし、あれでは……」

「では、代わりに貴様がやるか?」

「いや、それは……」


 一体何の話だろう。

 学のないあたしにはわからなかったが、あまり良い話ではないように感じた。


 あたしの先導など不要とばかりに、お客様方は足早に玄関へと向かい、待たせていた車に乗り込むと、あっという間に走り去ってしまった。


 後には不安だけが残った。


 ▽


 こんなことが数度あり、この頃から旦那様はほとんど書斎に閉じこもるようになった。


 いらいらと頭を掻き毟りながら煙草を沢山吸い、机の上を資料で散らかし、万年筆を忙しく動かした。

 手伝いを申し出たが、「いらぬ」と冷たく断られた。

 もちろん、清書作業もなくなってしまった――それどころか、なにかあって声をかけさせていただいても返事が帰ってこないことが多くなった。

 もはや「雪! 雪はおるか!」という怒鳴り声を耳にすることはなくなった。


 さらには、宮川さんを通して異例の指示が出された。


「俺を待たずに、決まった時間に食事を取れ」


 これには誰もが驚いた。

 この屋敷ではずっと、主人である旦那様がお席に着かれない限り食事は始まらない決まりごとだったのだ。


 この頃になると、旦那様はほとんどお食事を取られなくなった。

 さすがに皆んな不安に思いはじめ、新庄さんは仕事をしながらでも食べられるようなお食事ばかりを用意するようになった。

 その料理を宮川さんが旦那様に届けるが、結局食べられなくなるまでそこにあるだけで、だめにしてしまうことも多かった。


 あたしたちはご指示どおりに食事を摂るようになったが、どうしても気がとがめ、食卓には質素なものしか上がらなくなった。


 ▽


「お雪ちゃんなら、旦那様のお気持ちがわかるでしょう? なんとかお食事を取っていただけるようにお願いしてくれない?」

「私からもお願いします。旦那様がお食事をほとんど召し上がらなくなってしまって……」


 焦燥した表情の佐和子さんと新庄さんに、そんなことを頼まれた。


 しかし、旦那様のことがよくわかるからこそ――あたしが何を言っても無駄であることもよくわかっていた。

 あたしが申し訳なさそうにそれを言うと、佐和子さんたちはますます顔を暗くし、


「お雪ちゃんでも駄目なら、もうどうしようもない」


 と、ただ祈るように旦那様のお体を案じた。


 そのうちに、仕事の邪魔にならない砂糖入りの珈琲をお持ちする仕事を与えられた。

 大声で声を掛けるのもはばかられるので、勝手に書斎の扉をあけ、机の空いている場所にコーヒーを置く。

 旦那様の目には、あたしなどまったく写っていなかった。


 旦那様は、本当は砂糖の入った飲み物がお好きでないのだ。

 でも、少しでも力をつけていただかないと、本当にお体を壊してしまう――そんな気持ちで皆で話し合って用意することにしたのだ。


 それでも、しばらくして行ってみれば、コーヒーは空になっていた。

 それでやっと、あたしたちと旦那様の絆はまだ切れていないのだと思わせていただくことができた。


 あたしは、甘かったであろう砂糖が底に溜まった珈琲の容器を見て、嬉しくて涙が出てきたものだった。


 ▽


 そんなことがしばらく続いた。


 そして今回、とうとうもう4日も書斎の扉は開かない。

 今までも何度か書斎にお篭りになったことはあったらしいけれど、普通は二日、長くても三日で、こんなことは初めてだと佐和子さんたちが言った。


 四日目になると、あたしも含め、みなも食事をとるのをやめた。

 食堂に集まり、お茶だけを飲み、ただ祈るように旦那様を想うのだ。


 ▽


 そして夜、とうとう旦那様は倒れられた。

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