第七話
「旦那様は、すっかりお雪ちゃんがお気に入りのようですね」
食事中、佐和子さんが言った。
「どこに行くときでも、横にお雪ちゃんを連れて行かれるし」
しかし旦那様は肩をすくめ、馬鹿にするように答えられた。
「なんだ佐和子、妬いておるのか?」
「まさか!」
佐和子さんは、憮然と言い返した。
「お雪ちゃんが心配なだけです。佐和子は、お雪ちゃんのように朝から深夜まで働くような真似はできません」
「雪は、大変だとは思っていないのですが」
あたしは何となく申し訳なくなって答えた。
「なにをかしこまってるのよ。旦那様があんなことを仰っても信じちゃ駄目よ」
「でも」
「妬くどころか、あたしたちとても感謝してるわ。お雪ちゃんが来てからというもの、旦那様の生活が規則正しくなって、あたしたちの仕事もずいぶん楽になってるのよ。おかげで屋敷の管理に没頭できるし、何より」
佐和子さんはそこまで言ってから、わざとツンとすました顔をして見せた。
「旦那様が意地悪を仰ることもずいぶん少なくなりましたから、あたしたちの生活がとても平和になりました」
これはきっと、いままでずいぶん意地の悪いことを言われつづけてきた佐和子さんの、ささやかな仕返しなのだろう。
しかし、旦那様は気にされた様子もなく、
「それはすまなかった。これからはもう少し気をつけて、もっと沢山意地悪を言うとしよう」
と平然と言ってのけた。
▽
旦那様は何かあるたび、あたしを連れて回られた。
これまで屋敷の決まった場所しか歩かれなかった旦那様だが、最近では屋敷の中庭や、正門の森なども歩き回られるようになった。
そのたびに、
「雪! 雪はいるか!」
と、仕事中のあたしを大声で呼ぶのだ。
「ほら、お雪ちゃん。旦那様がお呼びよ」
佐和子さんたちがからかうようにそれを伝えに来るたび、あたしはなぜか気恥ずかしくて、顔を赤くしながら旦那様のもとへと急いだ。
森を歩くときの旦那様はあまりものを仰らず、たまにあたしに対して意見を求められた。
「いつも庭が綺麗に掃き清められているが、落ち葉は落ち葉のまま置いてある方が美しいと思うのだ。雪、お前はどうだ」
「はい。確かにそれも良うございますが、いちど葉が腐ってしまいますと、もう私たち屋敷の使用人の手にはおえませんから、やはり片付けませんと」
「ふむ」
他愛のない会話だが、旦那様はあたしに意見をお話しのなかで反映されることがあった。
一度など、あたしの答えた言葉をほとんどそのままお使いになって、万年筆を滑らす手が思わず凍ったものだ。
▽
旦那様は滅多に外出されない方だった。
一度だけ、東京の中心街に足を運ばれたことがあって、あたしもそれについて行かされた。
行先は迎賓館だった。
お国の偉いお方ばかりが多く集まっていた。
集まったお大臣様たちは、一様に沢山の勲章を付けていて、また、ほとんどの方が大きなお髭を生やしていた。
旦那様と言えばその中でただ一人、お屋敷にいるときとまったく同じ地味な着流し姿だった。
ある意味一番目立った格好だと思った。
旦那様はつまらなそうに料理を取っては一口だけ口にして、
「これなら新庄が作る飯が数段ましだな」
と、あたしに押し付けた。
「おお、鳴滝殿! よくぞおいで下さった!」
そんな決り文句で、大勢のお大臣様が次々と旦那様に挨拶しに来られた。
あたしは恐ろしくて旦那様の後ろに隠れていたが、旦那様は、
「どうもわたくしのような者には場違いですな。連れの者が怯えておりますし、早々に退散させていただくとします」
などと仰って、あたしを山車に簡単に追い返してしまった。
旦那様のお仕事のことは聞いていたが、それにしては様子がおかしいように感じた。
お大臣様たちが、みな一様に旦那様に対して顔色を伺っている。
そして同時に、どこか疎まれているようにも見えた。
「雪。食ったか?」
「はい。旦那様がお食べにならないのにお取りになるので、雪はすこし苦しいです」
あたしが答えると、旦那様は溜息をつかれた。
「こんな茶番には付き合ってられん」
「茶番、ですか」
「食い物は不味いし、ここにいるのは愛国者というのも名ばかりの野心家の狸ばかりだ。まともな政治家ならこんな場所に顔を出す暇などあるはずもないしな」
憎々しそうな表情だった。
「まぁ顔を出して、最低限の義理は果たした。帰るぞ」
「えっ、しかし旦那様」
壇上では、ひときわ大きな髭を生やした殿方が、大きな声で意気揚揚と難しい話を話しておられた。
「まだお大臣様がなにかお話してらっしゃいます」
「解っている。あの原稿も俺が書いたのだからな」
旦那様はそう仰って、踵を返して扉に向かって歩き始めた。
「お待ちください、旦那様」
あたしも慌ててその後を追った。
帰りの車の中、旦那様はどこか悲しそうな顔をしておられた。
▽
ある日、 旦那様が仰った。
「俺は最近、小説を書くことが楽しくなった」
その言葉はあたしには意外だった。
大切なお仕事を続けながらも、夜には小説を書き続けておられるのだ。
楽しくなければ、そんなことをするはずもない。
「今までは、楽しくはなかったのですか?」
あたしの言葉に、旦那様は首をゆっくりと振って、
「そうではない。そうではないが……やはりどこか無理をしていてな。それに読む者の声が聞こえてこないのではつまらないではないか」
「読む者の声、ですか」
「うむ、読者の声が聞けるというのは、物書きにとって大切なことだ」
「なるほど」
「それに、一番は、話を考えるときに孤独でないことだろうな。雪」
あたしは、それがあたしのことを指しているのだとわかり、顔を赤くした。
これは旦那様からの遠回しな感謝の言葉だ。
普段、あまり礼などを口にする旦那様ではないが、こうして言外に「感謝している」と伝えてくださるのだ。
▽
この頃、あたしは屋敷にいる誰よりも忙しく、そしてとても幸せだったように思う。
昼は忙しく、佐和子さんたちにからかわれたり、時には叱られることもあったが、皆は親切だったし、やりがいもあった。
夜になると、腕が痛む旦那様の替わり、小説を清書させていただく。
抑揚のない淡々とした旦那様のお声で、様々なお話しを聞かせていただくことが何よりの楽しみになった。
旦那様の語られるお話はいくらでも変化した。
美しい恋の物語、難しい歴史のお話、恐ろしいお話、悲しいお話、可笑しいお話と、よくもこんなに色々なお話を思いつけるものだと、あたしはいつも驚いた。
恐ろしいお話や、悲しいお話の時には、泣いてしまってお手伝いさせていただくことができなくなることもあった。
あたしはそれを申し訳なく思っていたが、旦那様にはかえって喜ばれていたようだ。
そして旦那様の腕を揉ませていただく。
旦那様には嫌がられたが、もはやそれがなければ一日が終わらないような気すらしていた。
それほどまでに旦那様の語られるお話は、あたしの生活の中心となっていた。
▽
そうしたある日、旦那様がぽつりと仰った。
「俺は、本当は、ただ話を綴るのが好きなだけなのだ。いつもこうしていられればどれほど良いか」
「今からでも、そうされてはいかがでしょうか」
「そうもいかん」
軽い気持ちで言った言葉に、旦那様は首を横に振られた。
「政治家たちは政には長けていても、それだけだ。誰かが支えてやらねばならん」
「ご立派なことだと思います」
「おまえも知っての通り、俺は変人で通っていてな。政府で俺ほど嫌われている者もなかなかおるまい。それでもなお俺を使うということは……この仕事は国にとって本当に必要なことなのだろう」
「はい」
「それを放り出してまで、自分のやりたいことをするのもな」
あたしにはお国のことは何もわからない。
ただ旦那様のお好きなことを手伝わせていただけることに幸せを感じていた。
そして、瞬く間に一年が過ぎた。
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