第六話

 それからというものの、あたしは仕事を終えた後、旦那様のお仕事のお手伝いをさせていただくことが日課となった。

 あまり毎日夜になるたびに旦那様の書斎に出向くものだから、屋敷の皆からいぶかしがられた。

 同情してくれる人もいて、あわてて好きでやらせていただいているのだと訂正すると、妙な顔をされたりした。


「お雪ちゃんは、旦那様が恐ろしくないの?」


 と、佐和子さんにもそんなことを訊かれた。


「いいえ、少しも」


 あたしは正直な気持ちを話したが、なかなか信じてはもらえなかった。


 旦那様は、慕われていると同時に恐れられている。

 食事中などには軽口をきくこともあるが、旦那様のご機嫌が悪いときなどは、皆どこか肩を竦めるようにしていた。


 あたしはそれが悲しかった。


 ▽


「旦那様。旦那様は本当はお優しい方なのに、なぜ皆を大声で叱り付けたり、意地の悪いことばかり仰るのですか?」


 あたしは仕事の合間にそう訊ねてみた。

 旦那様はむっと顔をしかめられた。


「優しい? 俺がか」

「はい」

「どこが。俺は役立たずはすぐにでも馘首にするし、気に食わないやつも側に置かない。それに、お前達が困っているのを見るのも好きだ。そんな俺のどこが優しい」


 確かに、旦那様はあたしたちが困っているのを見るのがお好きなようだ。

 悪趣味ではあるが、それでも、もし本当に困っていれば手を差し伸べてくださることをあたしは知っている。

 たとえば手紙を出したかったあたしのためにお給金を出してくれたように。


「ということは、今いる使用人は、旦那様の目に適ったということでしょう?」

「うむ、少なくともとも役立たずはいないな。それぞれ職務を全うしようと、精一杯やってくれている」

「では、なぜ皆に恐れられるようなことを……」

「雪」


 旦那様はあたしの声を遮ぎられた。

 もしかすると、あまり慕われることを好まないのかもしれない。


「勘違いするな。俺は自分に正直だ。恐れられているのなら、それが俺だ」

「雪は、旦那様が恐ろしいとは思いません」

「変わった娘だな……少しは恐れたらどうだ。そのうちに俺の気が変わって、お前を襲うやもしれんぞ?」


 旦那様はそう言うと、にやりと嫌らしい顔で笑ってみせる。


「こんな小娘に本当に興味がおありならば、どうぞお好きに」


 あたしが答えると、旦那様は肩をすくめられた、


「そんな気にならぬように、『女』を感じさせない小娘を雇っているのだ」

「と申しますと……?」

「女は仕事の邪魔になる」

「さようですか」

「お前も、襲って欲しければ少しは色気を身につけたらどうだ? まぁ、そうなれば追い出すことになるが」


 旦那様はどこか馬鹿にしたように仰った。

 これが、『儀式』のときのやり取りから来ていることは明らかだ。

 旦那様があたしや佐和子さんたちを見る目には、少しも『色』を感じない。


 でも、あたしは旦那様のことを信頼していた。


 ▽


 ある日、旦那様が仰った。


「そうだ、雪。お前は本を読むのが好きと言っていたな」


 あたしは仕事の手を止め、すぐに応える。


「はい」

「どんなものを好む?」

「恋愛小説が好きです」

「ふむ……しかし、お前の田舎じゃ簡単には手に入らないだろう」

「いえ、学校の近くに図書館がありました」

「ほう?」


 それは旦那様には意外だったらしい。


「飢饉で子供を売らねばならぬような土地なのにか?」

「山形は教育熱心な土地でしたので。村長の勧めもあって、父と母が学校に入れてくれたんです。これからの時代は女も字が読めないと駄目だと言われまして……そこで本を読むことが好きになりました」

「ほう」


 旦那様が感心したように言った。


「なるほど、ならば雪。この屋敷にある本ならば好きに読んでよい」

「えっ!」


 それは思いもよらない嬉しい言葉だった。


「といっても、ろくな本がないがな」

「よろしいのですか?」

「良いも悪いもない。お前だけが皆と同じ仕事が終わってから俺の仕事を手伝っているのだ。そのくらいの見返りは当然だろう?」

「でも、旦那様はお小遣いを下さるではないですか」

「なんだ。読みたくないのか?」

「いいえ、とても読みたいです」

「では、素直に嬉しがれ」

「ありがとうございます。素直に喜ばせていただきます」


 あたしが頭を下げると、旦那様はニヤリと笑われた。


「それに、こちらにも目論見がある」

「……と申しますと」

「雪。お前の手による清書はなかなか見事だ。それが本好きから嵩じたものならば、読めば読むほど俺の仕事もはかどるだろう」

「ありがとうございます。精一杯努めさせていただきます」


 旦那様の手前、飛び上がって喜ぶわけにはいかなかったが、これは本当に嬉しい出来ごとだった。


 書斎にはあたしが読みたい本がいくらでもあった。

 とくに、大好きだった柏葉健治の著書がすべて揃っていたので、実は気になって仕方がなかったのだ。


 ▽


 ある休みの日、書斎で本を読みつづけていると、旦那様に声をかけられた。


「どうだ雪。何か気に入った話はあるか?」

「はい。旦那様のご蔵書はどれも素晴らしいです」

「たとえばどれだ?」


 旦那様はお話をされるとき、いつも手を忙しく動かされたまま、視線もこちらには向けられない。


 もしかすると手伝いが必要なのかと思い何度か申し出たが、旦那様は決まって腹を立てられた。


「お前は昼に働き、夜も俺の手伝いで遅くまで起きているだろう。無茶をすると体を壊す。お前は俺に苦労でもかけたいのか?」


 まるで、自分に迷惑がかかることを怒っているような言い方だった。


「旦那様も、お休みにならないではないですか」

「それがどうした」

「雪はいつも心配です。いつか旦那様がお倒れにでもなったら」

「俺はいいのだ。ひ弱かもしれんが、倒れたりはしない」

「しかし」

「それに、万一倒れれば、お前たちは自由になれるかもしれんぞ?」

「何を仰いますか!」


 あたしはそれを聞いて思わず声を荒げた。


「雪は旦那様に仕えているのですから、そんなことを仰られると困ります!」

「万一と言っているだろう」

「旦那様は雪が買われて来てから一度だってお休みになっておりませんし、朝から深夜までいつも起きてらっしゃいます。こんなことを繰り返していれば、いつか……」

「ええい、やかましい!」


 旦那様は鬱陶しそうに話を遮った。


「余計なことだ! お前は休みの日に仕事をするな。それさえわかればよい!」

「……はい」

「まったく、なんと小うるさい女中だ!」


 恐ろしげな物言いだった。

 けれど、きっとこれは旦那様の優しさなのだ。

 あたしは、旦那様の怒鳴り声を嬉しくさえ思えた。


「それで雪。どの話が気に入った?」


 旦那様は切り替えが大変お早いかただった。

 たった今怒っていたかと思うと、すぐにもとの顔に戻られる。

 始めは戸惑ったが、あたしはもうとっくに慣れていて、すぐに返事することができるようになっていた。


「雪は、柏葉健治さんのご著書が一番です」

「何?」


 旦那様はペンを動かすのを止め、眉根を寄せられた。


「あんなものが良いのか?」

「あんなものと仰いますが、生きてさえおられれば、この方はきっと歴史に残るほどの作家になったと雪は思います」


 柏葉健二。

「ロタチオン」は、あたしが売られた日、最期に読んだ小説だ。

 今はこうしていくらでも本を読ませていただいているが、あの本はあたしにとってとても大切なお話なのだ。


 でも、旦那様はお気に召さないようだった。


「どこが! 俺は、自分の蔵書の中でも一番つまらん作家だと思っている」


 旦那様は吐き捨てるように、珍しく嘲笑を含む調子で言った。


「そんなことはありません!」


 驚いたあたしは、つい意地になってしまった。


「あの方のお話は、いつも雪には胸いっぱいになるものばかりでした」

「だが、薄っぺらいではないか」

「そうでしょうか。特に『ロタチオン』などは、あたしが売られる前、最後にいただいた時間で読んで、とても感動しました」


 あたしが夢中で言うと、旦那様は不機嫌そうに頭を忙しく掻いて、


「他にももっといい作品があるだろうに、なぜよりにもよって柏葉健治など……」

「お嫌いなのですか?」

「ああ。それに『ロタチオン』は、あの作者の作品でも、一番つまらん」

「ひどい。旦那様、雪はとても悲しいです。あんな美しい話はありません!」


 そう言って、あたしはこともあろうに仕事中の旦那様に詰め寄っていた。

 なんて失礼なことをしているのだろうと気付いたときにはもう遅かった。

 旦那様はあきれた顔でぽかんとあたしを眺めていたが、終いに大きな声で怒鳴った。


「馬鹿者!」

「……申し訳ありません」


 慌てて頭を下げてお詫びするが、あたしは大切な思い出を貶されたようで、我慢できずに目に涙を貯めてしまった。


「雪、泣いておるのか」

「……はい。申し訳ありません」

「何も泣くことはなかろう」

「……はい。でも、雪にとってあのお話は、一番大切なお話なのです。旦那様に貶されて、とても悲しかったのです」


 あたしが正直に言うと、旦那様は困ったようにまた忙しく頭を掻き、そして観念したように仰った。


「いや、悪かった、雪」

「えっ」


 あたしは思わず訊き返す。

 そして、旦那様を非難するようなことを口にしている自分に気づいて、血の気が引いた。


「申し訳ありません! 旦那様を非難するつもりは……!」

「構わぬ。あれは俺が悪かった」

「旦那様が謝られるようなことではありません! 雪が我侭なのですから、旦那様はいつものようにお叱りいただければよろしいのです。そんな風に謝られると、雪はどうして良いか……」


 おろおろと紡ぐあたしの言葉を、旦那様は不機嫌そうに目を閉じて、聞いておられた。


「まぁ聞け」

「はい」


 旦那様は少し声を落としてそう仰った。


「雪、お前――俺の仕事を何だと思っている?」

「それは、もちろん小説家なのでは」

「いいや、違う」


 答えたが、旦那様は首を横に振られた。


「では……」

「俺は国文学者だ。小説家ではない」

「なんと……」


 だが、そのお返事はすとんと胸に落ちた。

 あれほどのたくさんの文章を書いておられるにも関わらず、あたしはこれまで一度も「鳴滝」なる作家の小説を見かけたことがなかった。

 それがずっと不思議だったのだ。


「旦那様は学者さまだったのですか……」

「ああ。若い頃には小説も書いていたが、事情があって続けることができなくなってな」

「事情?」

「雪。学校で法律は勉強したか?」

「法律?」


 突然話が変わった。

 あたしは法律について詳しくないが、一応は授業は受けている。


「はい、もちろん」

「では質問だ。法律を考えるのは誰だ」


 少し考えて答える。


「それは……お大臣さまなのでは?」

「そう、政治家だ。だが、奴らはまつりごとには長けていても、それだけだ。文書作成の専門家ではない」

「はぁ、それはそうでしょうが」

「議会で決議された法律は、国文学者を中心にした校正委員会に回される。委員会では、法律が曲解されないように審議され、文書として起こされる」

「なるほど」

「その委員会の長が俺だ」

「……なんと……!」


 想像していたよりも大きな話で、あたしは驚いた。


「それは、恐ろしく重要なお仕事なのでは……!」

「つまらん」


 旦那様は吐き捨てるように言った。


「議会で決まった法律に問題を見つけても、指摘することすらできん。決められた文書を清書するだけの、ただの作業だよ。お前が夜にやっていることと変わらん」

「そうは思いませんが……」

「まぁ……それが原因でな。一時は個人的な文書を公開することを禁じられた」

「そんな……まさか、それでは……」


 それでは、夜にやっているあの作業は一体何なのだろうか。

 あの文章たちは、どうなるのだろうか。

 それに、旦那様は「仕事だ」と仰っていたではないか。


「なんだ、疑り深いやつだな。俺が嘘でも言っていると思うか」

「そうではありませんが……」


 書きたいお話を書くことが許されない、あるいは書いても公開できないというのは、一体どんな気持ちなのだろうか。

 あたしにはわからない。けれど、きっとそれは辛いことだと思われた。


「……今もまだ、書くことを止められているのでしょうか」

「いや。検閲はされているが、止められてはいないな」

「では」

「だが、俺の名前で書くことは禁じられている。いくつかの別名義を使っているが、まぁ所詮は手慰みだな」

「手慰みなどと! それに、なぜ禁止する必要があるのでしょう」

「俺が政治の現場を知り尽くしているからだな。我が国の政治は縦割りだが、俺は全てを俯瞰できる位置にいる。今のところ良いように使われてはいるが、俺の名前が表に出れば、政治家連中もいつ内情が漏れるか戦々恐々だろう」

「そんな……」


 あたしが清書させていただいている旦那様の文章は素晴らしいものばかりだった。

 美しい話、悲しい話、恐ろしい話、中には難しくて清書できないようなものもあったが、それを旦那様はご自分の名前で公開できないとは。


「旦那様の語られるお話は、雪にはどれも素晴らしいものでした」

「そうか。それはありがたい話だが……」


 旦那様はため息を吐いた。

 そこでようやくハッとして、あたしは旦那様がおっしゃりたいことを理解した。


「……まさか、旦那様がお使いだったお名前とは……」

「ああ。お前が好きだといった柏葉健二がそうだ」


 旦那様はため息混じりに言った。

 あたしといえば、驚くと言うよりはあきれてしまって、何を言って良いのかわからなかった。


「柏葉健二か。長らく忘れていた名だ。お前の口からそれを聞いて嬉しくもあったのだが、なかなか複雑でな。決して、お前の故郷の思い出を馬鹿にしたつもりはないのだ」


 旦那様は忌々しそうに頬杖を付いて仰った。


「つまり、旦那様が柏葉健二だったのですね」

「いいや、違う」


 旦那様はそれをきっぱりと否定された。


「柏葉健二は死んだ。『ロタチオン』が、柏葉健二の遺作だ」

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