第五話
旦那様の口調は、感情の含まれない淡々したものだった。
そのせいだろうか。その声が死に至る男の声に聞こえてしまい、あたしは涙でもう一文字も書くことができそうもなかった。
なんとか男の最期の言葉を書き留めると、あたしは正直に、もうペンが持てないと申し出た。
「旦那様。雪は、もう一文字だって書くことができません」
そう言うと、旦那様はむくりと起き上がり、あたしの顔をしげしげと眺めた。
あたしは自分の頬に涙が流れていることに思い当たり、慌てて服の袖でぬぐった。
「なんだ、雪、泣いておるのか」
「はい」
「今日は正直にはいと申すのだな」
「些細な嘘もつくなと……旦那様が仰いました」
「まあよい。これで間に合うだろう」
旦那様がゆっくりと体を起こされた。
「今日はこれでよい。残りは俺がやる」
「えっ、なぜ旦那様が?」
「何を言っておるか。仕事だからに決まっておるだろう」
旦那様は呆れたように言った。
「お仕事……」
とっさに意味がわからず、あたしは呆けたように旦那様を眺めた。
旦那様は立ち上がると、袂からごそごそと封筒を取り出した。
「雪、お前の給金だ」
「えっ!」
「何を驚いておるのか」
旦那様は眉を寄せた。
「女中の仕事以上の働き分に、金を出すのは当たり前だろう」
「えっ! あ、ありがとうございます! ……でも、その」
「何を驚いておるか」
「お仕事……だったのですか?」
旦那様の顔が、呆れたような表情になる。
「何だと思っていたのだ?」
「あたしはてっきり、泣き顔を見せてしまったので、罰としてこんなことをさせられているのかと……」
「馬鹿なことを言うな。なぜ俺がそんな面倒なことをせねばならんのだ!」
「申し訳ありません! 昨夜のお話しがどうしても恐ろしかったので、つい!」
慌てて頭を下げると、手の中のお給金が目に入り、じわじわと喜びが湧き上がって来るのを感じた。
これで田舎の両親を安心させてやれる。
弟達も飢えずに済む。
旦那様にどう感謝してよいのかわからないほどだった。
「旦那様。あたしなどのために、本当にありがとうございます」
「礼などいらん」
「これで、田舎の皆に手紙を書くことができます。感謝いたします」
「他に字が書けるものもおらぬので、雪に頼んだだけだ。本当ならば、女の手など借りたくないのだがな。どうにも右手が言うことをきかん」
旦那様がご自分の腕をさすられる。
それを見ていると、旦那様は怪訝そうに尋ねられた。
「雪、どうした?」
「右手が痛むのですか?」
「ああ……もう慢性化していてな。揉むとしばらく楽になるのだが、痛み始めるとこれがなんともならない」
「……あの、旦那様」
あたしが言いかけると旦那様はそれを遮った。
「さあ、そろそろ帰れ! 明日もいつもどおりに働いてもらうぞ。早く寝ねば差し支える」
「旦那様も、起きてらっしゃいます」
「それがどうした」
「あの、旦那様、もし失礼でなければ……その」
「なんだ? 言いたいことがあるなら言ってみろ」
「その、手を揉ませていただいてもよろしいでしょうか」
あたしは、ありったけの勇気を振り絞って言った。
この部屋には、旦那様とあたしの二人きりだ。
しかも、旦那様は秦とは違い、五体満足で体も大きい。
体に触れたりすれば、妙な気を起こされて、手篭めにでもされるかもしれない――そう思って、言い出せずにいたのだ。
(でも)
あたしが旦那様にして差し上げられることは、他にはないように思われた。
何をされても、仕方ない。あたしのすべきことをなそう。
あたしは臆病な自分と決別し、まっすぐに旦那様を見つめた。
しかし、旦那様は気分を害されたようだった。
「按摩を? いらぬ。必要ない」
「いいえ。いいですから腕を貸してください」
あたしは旦那様に近づき、そしてその腕を取った。
「……強引な娘だな」
「申し訳ありません。でも、あれほど仕事熱心な旦那様が、あたしのような学のない娘に仕事を手伝わせるほど手が痛むのかと……」
旦那様は困惑したように仰った。
「……俺は、体に触れられるのに慣れていないのだ。おかげで、髪がこんなに伸びっぱなしだろう」
「いいですから、腕を。田舎ではよく父の手を揉みました。きっとそれほど下手ではないと思います」
そう言って、あたしは旦那様の腕をゆっくりと揉んでいく。
よほど酷いのか、時々顔をしかめて辛そうにされるので、よく観察しながら、痛くないように気をつける。
「旦那様」
「……なんだ」
「その、これまで申し訳ありませんでした」
「なんだ? 何か失敗でもしたのか」
「いえ、そうではなく……雪は、旦那様をずっと誤解しておりました」
「誤解?」
屋敷はしんと静まっており、廊下のほうから柱時計の音がコツ、コツとかすかに響いている。
「どういう風にだ」
「ずっと、旦那様を恐ろしい方だと思っておりました。その、意地の悪い方だと」
「何も間違ってはいないではないか。俺は親切ではないし、特に女は嫌いだ」
「女がお嫌いなのですか?」
「うるさいだけだ」
旦那様はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「あたしは、妾として売られたものとばかり思っておりました」
「何?」
「なのに、一度も手を出されないので、不思議に思っておりました」
「雪、お前、まさか妾なんぞになりたかったのか?」
「まさか。ただ、あたしはあの人買いに買われて来た身です。普通ならば女郎屋にでも送られるはずでしたし」
「秦か」
「はい。あの方には『良い店を探してやる』と言われておりました。だから、ずっと恐ろしかったのです」
着物の袖をめくり、二の腕に取り掛かると、旦那様はフッと息を吐いた。
「お前がこの屋敷に来た日の朝、唐突に秦から電話があってな」
「はい」
「いくらでも構わないから、どうしても俺に買って欲しい娘があると言われた」
「そうなのですか」
「俺も、一体どんな端女が届くのかとずっと楽しみに待っていたものだ。もちろん断るつもりでな」
「……」
旦那様は、少しは楽になってきたのか、お顔をゆがめることは少なくなってきた。
「しかし、見てみれば思ったよりも器量の良い娘だったので驚いた。何か瑕疵でもあるのかと、あとで事情を訊いたものだ。お前の器量ならば高値がつきそうなものだからな」
――お前にもかなりの高値がついて、俺も儲けることができた――
秦の言葉を思い出す。
あれは、嘘だったのだ。
「聞けば、男と手を繋いだこともないような生娘が、あの小太りのジジイの命を助けるために口移しで薬を飲ませたそうだな。本当か?」
「……はい」
「そうか。普通であればこれさいわいと見殺しにして逃げるであろうに、馬鹿な女だ」
あたしは、あの男にも馬鹿と言われたことを思い出す。
意地の悪いことばかり言っていたあの男は、あたしの馬鹿な行為に報いてくれたのだ。
「あの男にしては珍しく、ずいぶんお前に感謝していた」
「そうでしたか」
「まぁ、結局かなりの額で買い取ってやったがな。雪、お前、はじめにいくらで売られたか覚えているか?」
「二百円でした」
「なら、秦はずいぶんと儲けたな」
旦那様はクツクツと笑った。
「俺はその五倍ほどの金額でお前を買った。あの男が言うことが本当ならば、きっと俺に尽くすであろうと思ったからだ」
あたしは自分についた金額を知って怖くなった。
でも、普通は買った女に値段を教えたりはしないものなのではないだろうか。
そんなことを思ったあたしを見て、旦那様は意地の悪い笑みを浮かべた。
「わかるか雪。つまりお前は俺のものだ。これからも役に立ってもらうぞ」
でも、あたしはそれを怖いと感じなかった。
「はい。あたしは旦那様のものです。少しでもお役に立てるように、どんなことでも頑張ります」
「ほう? なら妾の役目もこなすか?」
「えっ!」
ぎくりとして、自分の言葉を振り返り、サァッと顔を青くする。
しかし、旦那様は笑って仰った。
「冗談だ、馬鹿者。自惚れるな。お前は女中として買ったのだ。女が欲しければ街へ出る。わざわざ自分の屋敷で顔を合わす小娘なんぞではなく、器量よしの大人の女がいくらでもいるしな」
そう言って、にやりと下品に笑ってみせた。
あたしはなんとなく傷ついて、
「小娘で悪うございました。雪には殿方のお好みはよくわかりません」
そういって少し膨れて見せた。
旦那様は笑って、しかしそれだけだった。
▽
一通り腕を揉み終わった。
お給金が嬉しくてたまらなかった。
何度も何度もお礼を申し上げたが、旦那様はつまらなさそうに犬でも追い払うような格好であたしを追い出そうとする。
(これで、手紙を出すことができる)
旦那様のお心遣いには、感謝するほかなかった。
「旦那様、腕はまだ痛みますか」
「いや、多少楽になった」
「それはよかったです」
「しかしな……実は、俺は女に触れられるのが苦手なのだ」
旦那様はどこか困惑したように顔をしかめる。
「これからはもうこんなことはしなくていい」
「そうは参りません。高いお金で買われたのですから、少しでもお役に立たなければ」
「そう張り切らなくてもよい。十分役に立っている」
「それに、旦那様にとって、あたしのような小娘でも『女』なのですか?」
「……口が立つな。これだから学のある女は
「また『女』と仰いました」
「やけに拘るな。傷ついたのか、ん?」
「はい」
旦那様は珍しく大声で笑った。
「まあよい。今夜はもう帰れ」
「はい。それと、あの……」
「なんだ、まだあるのか?」
「一つお願いがあります」
「……願い事の多い召使だな。何だ、言うだけ言ってみろ」
「先ほどのお話ですが、最後まであたしに書かせていただけませんか」
「いらぬ。あとほんの数枚で終わりだぞ。自分でできる」
「しかし、先が気になります。その、あの男の恋がどうなるのか……」
「そんなこと、俺の知ったことか!」
旦那様は怒気を含んだ怖い声でそう言う。
しかし、あたしは少しも怖いとは思わなかった。
「お前の娯楽のために書いているわけではないぞ!」
「ですが、あの文面ですと、読み手は女性なのでしょう? 雪が最初の読者になって、旦那様に感想を申し上げます」
「とんでもない我侭女中だ」
旦那様はあきれた顔をして、腰に手を当てられた。
「仕方ない。明日も書斎に来い。ほんの数分だけ付き合ってやる」
「はい。ありがとうございます。それでは今度こそお休みなさいませ、旦那様」
あたしがお辞儀すると、旦那様は可笑しそうに笑いながら、しかし何も言わずに扉を閉められた。
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