第四話

 翌朝、いつもどおりの一日が始まった。

 食堂で見る旦那様はいつもどおり不機嫌そうで、召使達もそれを当然のことと受け止めている。


 どんなに贅沢な食事が用意されていても、籠の中の鳥であるあたしの心は安らがない。

 夜が来るのが怖かった。


 昨夜は、旦那様に手を出されずには済んだ。

 でもいつまでもそう言うわけにもいくまいし、あの不気味な儀式めいた作業が待っているというだけで、恐怖するには充分だった。


 でも、あたしは旦那様の所有物なのだ。

 目の前にある山積みの仕事を片付けること以上に、大切なことなどありはしない。


 ▽


 あたしが外庭に面した窓を拭いていると、佐和子さんに声をかけられた。


「聞いていいかな」

「はい」

「昨日は何かあったの?」


 ぎくりと窓を拭く手を止めてしまった。

 佐和子さんはどこか言いにく辛そうに、目を泳がせた。


「まさか、解雇されたとか……」

「いいえ」

「もしかして、旦那様になにかされた?」

「……いいえ……いいえ!」


 返事をしているうちに、涙が溢れ出た。

 佐和子さんはひどく驚いた様子で、慌ててあたしの肩を抱いた。


「ごめんね、もう聞かないから」

「……すみません、その、泣いてしまって……」

「何があったかはもう聞かない。でも、逃げ出せばきっと、もっと辛くなるわ」

「逃げたりなど……」

「どうか、耐えてね」


 佐和子さんは、あたしの背中をさすりながら慰めてくれる。

 その様子から、どんな想像をされているのかに思い当たる――旦那様に手を出されたとでも誤解されているのかもしれない。

 旦那様の名誉のために、あたしは泣いている理由を話そうと考える。


「旦那様は、何もなさいませんでした。ただ……」

「ただ?」


 昨日の儀式は、人に話してよいものなのだろうか。

 考えても解らなかったので、あたしは自分の気持ちだけを話すことにした。


「あたし、田舎の家族に会いたいんです。会いたくて、会いたくて! 仕方ないんです!」


 口にしてしまうと、もう止まらなかった。

 涙がますます溢れ出て、たった二月前まで住んでいた懐かしい家族や故郷のことが思い出されて、自分でもどうしようもなかった。


「そっか」


 佐和子さんはホッとした様子だった。


「よしよし、大丈夫だから……きっとまた会えるわ」


 そう言ってあたしを抱きしめて、優しくなでてくれた。


(……佐和子さんだって、あたしと同じ立場のはずなのに)


 あたしは、こうして泣いていることがひどく残酷なことのような気がして、ぐっと堪える。


「すみません、あたしだけ、こんな」


 それでも、涙を止めることができなかった。

 佐和子さんはしばらく付き合ってくれたあと、別れ際に言った。


「寂しいけれど、家族のためにもがんばってね。あたしたちはきっと相当恵まれているのだから」


 そして、優しく笑ってくれた。

 あたしは申し訳なくて、嬉しくて、だから余計に泣くことを止めることができなかった。


 ▽


 夜が来る。

 また旦那様の書斎に向かう。


「旦那様、雪でございます」

「入れ」


 旦那様は、昨日と同じように長椅子に横になっておられた。

 あたしも昨日と同じように旦那様の机の前に座る。


 原稿用紙はすでに用意されていた。

 あの不気味で恐ろしい儀式を受けることを覚悟する。


 旦那様が仰った。


「雪、昨日は眠れたか」

「……はい」


 なんとか答えたが、蚊の泣くような声しか出なかった。


「なんだ、眠れなかったのか。臆病な奴だな」

「いいえ、眠れたと申しました」

「嘘は通用しない。昨日は泣きながら、なかなか寝付くことができなかったのだろう?」

「……いいえ……」

「些細な嘘も、俺に吐くな。よく眠れたかと聞いているのだ」


 なぜか旦那様がこだわられるので、観念して正直に答えた。


「はい。本当は昨日の儀式が恐ろしくて、なかなか眠ることができませんでした」

「そらみろ、やはり嘘だ。だから女は信用できん」


 旦那様は不機嫌そうに言ったが、口元は意地悪そうに笑っているように見えた。


「ペンを持て。始める」

「はい」


 あたしは覚悟して、旦那様の声を待つ。


 そして、旦那様が語り始めた。


 ▽

 ▽

 ▽


 むせ返るようなクチナシの香は、もしかして、わたしはもうとっくに死んでいて、天国にいるのではと、勘ぐってしまうほどだった。

 

 いっそ、そんなでも構わないと思った。でも、やはりそれは現世のことで、私は本当に美しい土地にたどり着いたのだ。

 アブラハムの子孫が、棗の茂る蜜の地にたどり着いたかのように。


 自分の冒した沢山の罪が、サァッと許されてゆくように、一面の花々は、私の疲れた心を慰める。

 私は嬉しくなって、走り出しそうになった。

 

 夢かも知れぬとは思ったが、この香が夢などであるはずようもない。

 これほどの幸いが、もしも夢であるならば、現の世になど価値はない。


 焦がれて、焦がれて、ここまで追ってきたが、手の中に入ったかと思うと、あの人はまるで岩魚のように、するりと逃げていった。

 

 この場所は、あの人からの贈物なのだ。

 きっと、追いつくことがすばらしいのではない。

 こうして、ずっと追い続けたいと思わせるほどに愛しい人がいるということの、なんと素晴らしいことか。


 ▽

 ▽

 ▽


「雪、そこまで見せてみよ」


 あたしは原稿を手渡す。


「うむ、まずまず問題はないな。先を続ける、座れ」


 旦那様は満足そうにそう言うと、また目を閉じる。


 ▽


 ――それは、とても美しい恋の物語だった。


 不思議に思いながらそれを書き留める。

 てっきり今日も恐ろしい言葉で虐められるものと覚悟していたあたしは、不思議に思いながら記述を続けるが、いつの間にか旦那様の語る恋の物語に夢中になっている自分に気がついた。


 なんて、美しい言葉を話す方なのだろう。

 昨日の恐ろしい文章が、まるで嘘のようだった。


 あれほどまでに恐ろしかった旦那様が、急に優しく見えてしまう。

 あたしはそんな狡い心を持った、自分を恥じた。


 あたしは時間が経つのも忘れ、夢中で書き留めた。

 旦那様の言葉を一文字だっておろそかにせず、封じ込めるように。


 そして、何時間かが経った頃、旦那様のお話になる恋の物語は終焉を迎える。

 男はとうとう病に倒れ、もう女を追うことができなくなるのだ。


 あたしは悲しくなって泣いた。


 しかし男は嬉しそうに笑うのだ。


 ▽

 ▽

 ▽


「次は、貴女が私を追ってきてください。私は決して捕まることがないよう、どこまでも、どこまでも、光の中を進んでゆきます。そうして、貴女が力尽きた頃、またもとのように、私は貴女を追いつづけます。いつまでも、こうして、愛する貴女と出会えずにいられることを、私は何よりも幸いに思います」

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